幕末の歴史を刻む上野の森 3.上野恩賜公園の誕生と寛永寺 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 山形美智子 Mihicko Yamagata 鷹取 敦 Atsushi Takatori December 19 2014 March 22 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁
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寛永寺の門にある徳川家の紋章 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 ◆上野恩賜公園の誕生と寛永寺 下は、江戸時代、歌川広重が描いた「東都名所、上野 東叡山 全図」の一部にある寛永寺と上野公園です。 歌川広重が描いた「東都名所、上野 東叡山 全図」の一部 上野戦争で徹底的に破壊された寛永寺と上野公園は、その後、明治6年1月に太政官の布告により上野公園地となりました。下が明治6年1月に太政官の布告です。
現在、上野公園は、正式には上野恩賜公園と呼ばれいます。 その言われについては、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいます。 その後、規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備されました。面積は62万平方メートル余もあります。 上野恩賜公園の生みの親はオランダ人医師のボードウィン博士*です。もともと病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園とすることを政府に進言し実現したそうです。 出典:上野公園に建つ「下町まちしるべ」など
上野公園にあるボードワン博士の銅像 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-22 上野公園にあるボードワン博士の銅像の説明 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-22 下は、現在の上野恩賜公園の全図です。 北に寛永寺、徳川将軍家霊廟などがあり、真ん中左の不忍池近くに上野東照宮があります。往事は、以下の大部分が寛永寺の境内だったことになります。 現在の上野恩賜公園の全図 出典:寛永寺 つづく |