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幕末の歴史を刻む上野の

7.開山堂、清水観音堂


青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda 
山形美智子 Mihicko Yamagata   鷹取 敦 Atsushi Takatori


December 19 2014
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幕末の歴史を刻む上野の森 寛永寺 
@寛永寺の誕生 D徳川家と寛永寺 H大黒天 L尾形乾山
A上野戦争 E黒門と時鐘堂 I五重塔
B上野公園と寛永寺 F開山堂、清水観音堂 J家綱霊廟勅額門
C寛永寺 根本中堂 G不忍池辯天堂 K綱吉霊廟勅額門
歴代徳川将軍家家系  徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間


寛永寺の門にある徳川家の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13




 このページは、現地調査未了のものが含まれます!


開山堂

 開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正をお祀りしているお堂です。天海僧正が尊崇(そんすう)していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正もお祀りしているところから、一般に両大師≠ニ呼ばれ、庶民に信仰されてきました。

 初建は正保元年(1644)ですが、現在のお堂は平成五年に再建されたものです。


出典:寛永寺Weg

 以下は、東京都台東区のWebによる解説です。

◆開山堂、慈眼堂、大師堂

 国立博物館横、旧本坊表門の間にはさまれたところにある両大師は、慈恵じえ大師と慈眼じげん大師をまつるので両大師といっている。別名を開山堂、慈眼堂、大師堂といっているが一般には両大師とか両大師堂といわれている。

 山門右手に「両大師」と書いてある絵馬の形をした立札がたっている。金色に塗られているので、金札といわれていた。江戸時代は、両大師像が10月を除いて月々順番に子院を廻っていたので、その所在を表わすために、こうした立札が門前に建られたものだ。

 慈恵大師は康保3年(966)から19年間にわたり天台宗の座主の職にあった良源大僧正で、天海僧正が深く信仰していた高僧である。

 永観3年(985)正月3日に死去しているので元三大師ともいわれ、生前に疫災を除かれたというので、災厄除けの信仰があり、角つののついた大師像を摺写したお札を授けられている。また4代将軍の出生にさいして、安産祈願所にもなったことから、子授け大師としても一般の信仰を集めるようになった。

 もう一人の大師、慈眼大師は寛永寺の開祖天海僧正である。天海僧正は本欄では何回か登場しているが寛永寺発行の「寛永寺略記」により略述させていただくと、寛永寺の開山、東叡(上野)、日光両山の輪王寺の開基、日光、比叡両山の再興者だと述べている。

 天海僧正は天文5年(1536)元旦に福島県会津高田に生まれ、寛永20年(1643)10月2日、108歳の高齢で寛永寺において死去、日光山に埋葬されている。翌年、日光、東叡両山に影堂(供養堂)を建てた。これを開山堂といった。慈恵大師の慈恵堂がその後に開山堂に移され、両大師堂となった。

 正面の本堂は元禄11年(1698)9月と享保5年(1720)5月、元文2年(1737)5月の火災で焼失、その都度再建されている。本堂前の青銅灯龍は大猷院霊廟前に徳川御三家が奉献したもので、製作年月の銘はないが、慶安年間の製作と思われる。山門横にある銅鐘には慈眼大師廟前、慶安4年(1651)鋳師長谷川舎吉いえよしの銘がある。本堂は平成元年9月4日焼失しているが、同5年10月に再建されている。 



清水観音堂

 清水観音堂は、京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永八年(1631)天海大僧正により建立されました。また、御本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音(せんじゅかんのん)像を迎え秘仏としてお祀りしております。


清水観音堂    出典:グーグルストリートビュー

 下は江戸時代の浮世絵(歌川国貞画)に見る寛永寺の清水観音堂です。


歌川国貞画  出典:上野・寛永寺蔵


寛永寺 清水観音堂 (トリップアドバイザー提供)

 下は東京都台東区のWebによる解説です。

◆清水観音堂

 天海僧正は上野の山に寛永寺をつくったときに、当時、天台宗の最高権威だった比叡山延暦寺をモデルにした。例えば寺名を年号からとり寛永寺、住職には皇室から法親王を迎える、西の叡山に対し東叡山としたことなど……。

 また、寛永寺周辺をみても、不忍池弁天堂や清水観音堂もちゃんとモデルがある。

 清水観音堂は京都の清水観音堂がモデル。本堂正面を舞台づくりにし、不忍池の景色を眺められるようにした。このように天海僧正は天下の寛永寺一山を造営するためにいろいろと取り入れたのであろう。

 清水観音堂は寛永8年(1631)に上野の山の中ほど摺鉢山すりばちやまに建てられた。後に元禄7年(1694)、現在のところに移っている。本尊は比叡山の恵心僧都の作といわれる千手観音菩薩である。

 堂は安永年間に改築しているが、古色そのもの、上野の戦争、大正大震災などいく度か災火にせまられながらも難をまぬがれて残り、建物は重要文化財の指定をうけている。

 脇仏の子育観音は昔から多くの信者を集め、子授観音の別名もある位である。本堂の中をみると、いろいろの願いをかけて奉納された千羽鶴が上からさがっていて、さらにその奥の方には人形が並べてある。

 子授けの願がんをかけて、生まれた場合や子供の無事成長を祈って人形をあずけるのだそうである。毎年9月25日の「人形供養」では使用済の人形を焼いて供養する行事もある。

 堂内に掲げてある絵馬や額も寛政、天明期の古いもので、平家物語にちなんだ「盛久危難の図」「千手観音」などがあり、明治期の画家五姓田芳柳の描いた「上野戦争図」も人目をひく。

 境内には「秋色桜しゅうしきざくら」、「秋色句碑」、「人形塚」などの史跡がある。




寛永寺 清水観音堂 (トリップアドバイザー提供)


清水観音堂     出典:グーグルストリートビュー


清水観音堂    出典:グーグルストリートビュー


つづく