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隠れた桜の名所 池上本門寺 総目次
以下は以上みてきました池上本門寺の伽藍や境内についての概要(解説)です。 ◆池上本門寺の伽藍・境内 総門 元禄年間(17世紀末~18世紀初め)の建立と伝えられています。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるもので、現在掲げられている額は複製です。オリジナルは霊宝殿に収蔵され常設展示されています。 此経難持坂 池上本門寺の表参道96段の石段坂です。石段は、慶長年間に加藤清正が寄進したものと伝えられています。法華経宝塔品の偈文の96文字にちなんで石段を96段とし、偈文の文頭の文字をとって坂名としています。 撮影 池田こみち Nikon Coolpix S9900 2016-4-6 仁王門 大堂正面に建つ二重門。旧国宝の山門は、1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建されました。門内には彫刻家圓鍔勝三が、アントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されていましたが、近年修理を機に本殿内に移設。新たに仏師原田佳美作の仁王像が2001年(平成13)10月に開眼供養が行われ奉られています。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-3 日蓮 日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)- 弘安5年(1282年)は、鎌倉時代の仏教の僧です。鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖です。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈されています。 波木井の御影 (久遠寺蔵) 出典:Wikipedia 日蓮遺文 日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越えています 。 ・守護国家論(しゅごこっかろん)1259年 ・災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年 ・災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年 ・立正安国論(りっしょうあんこくろん)[12]、1260年 『立正安国論』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝) ・顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年 ・法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年 ・八宗違目抄、1272年 ・開目抄(かいもくしょう)1272年 ・真言諸宗違目1272年 ・祈祷抄(きとうしょう)1272年 ・如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(巻頭部分、日蓮撰・筆、法華経寺蔵、国宝) ・顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年 ・小乗大乗分別抄、1273年 ・木絵二像開眼事、1273年 ・法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年 ・神王国御書、1275年 ・種種御振舞御書、1275年 ・撰時抄(せんじしょう)1275年 ・報恩抄(ほうおんしょう)1276年 ・四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年 ・諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年 ・三大秘法禀承事[13][14](さんだいひほうほんしょうじ[15]、さんだいひほうぼんじょうのこと[16])1282年(但し、真偽両説あり[17][18]。) ・唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう) ・本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう) ・兄弟抄 ・下山御消息(しもやまごしょうそく) 日蓮像 仁王門手前の石段の脇に立っています。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像です。彫刻家の北村西望の作です。 ここにはもと、明治時代の政治家の星亨の銅像がありましたが、戦時中の金属供出により撤去されました。戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立されています。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-3 日朝堂 ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされています。以前はここで境内に居る鳩の餌を販売していましたが、現在は東京都の指導により販売中止しています。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-3 鐘楼 現在の鐘楼は、1958年(昭和33年)の再建。旧梵鐘は、1647年(正保4年)加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されています。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-3 大堂 「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいいます。 旧大堂は、本門寺14世日詔の時代の1606年(慶長11年)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立しましたが、1619年(元和5年)に焼失しています。 1628年(寛永6年)本門寺復歴16世日樹の代に金1万両を用いてほぼ旧規模に再建されました。1710年(宝永7年)再び焼失。本門寺24世日等時代の1723年(享保8年)8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小の上再建されました。 出典:Wikipeida この3代目の大堂は、1945年(昭和20年)4月の空襲により焼失。1948年(昭和23年)仮祖師堂と宗祖奉安塔を建設しました。その後、本門寺79世伊藤日定が中心となり全国檀信徒の寄進を受け、1964年(昭和39年)現在の大堂を再建しました。 この際、仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築された(現在の霊宝殿の位置)。現在の大堂は、鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造。高さ27メートルの大建築です。 第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていました(戦災で焼失)。再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額がかかっています。 堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置しています。 1966年(昭和41年)川端龍子による天井画「未完の龍」が描かれています。2005年(平成17年)4月から屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・火事対策等の工事が行なわれ、建物全体が足場で覆われていましたが2006年(平成18年)4月に工事が完了しました。 経蔵 空襲による焼失をまぬがれた建物の1つです。輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていました。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立されました。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移されています。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-3 五重塔 高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立されました。 全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、屋根は初層と二重は本瓦葺き、三重以上は銅板葺きとしています(当初はすべて本瓦葺き)。 建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。初層の各面は中央を桟唐戸、両脇間には格狭間(ごうざま)形の装飾を入れ、蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻を入れています。 1997年(平成9年)10月から2002年(平成14年)3月にかけて国庫補助事業として解体修理が行われました。基礎部分の石段からはホンモンジゴケというコケの一種が見つかっています。五重塔下付近、東京国立博物館蔵・池上本門寺経筒(藤原守道作)が出土しています。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-3 宝塔 境内西方、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建っています。 新編武蔵風土記によると、この地にはかつては2間に3間の灰堂があり、当初、本門寺の開基檀越である池上宗仲が宝塔を作って、日蓮の遺灰を中に盛って奉安したと伝えられています。 現存の宝塔は棟札(所在不明)抄により、1828年(文政11年)日蓮の550遠忌を記念し、犬山城主・成瀬氏らを本願主として再建されています。作者は、小木新七その他です。 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-6 その後、1851年(嘉永4年)に修理されています。円筒形の塔身に宝形屋根を載せた宝塔形式の塔です。富山本法寺蔵・重要文化財の絹本着色法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に類似しており、建立時代は新しいのですが、宝塔形式の木造塔で内部空間を有するものは他にほとんど類例がありません。 石造方形基壇および石造蓮台形台座の上に木造塔身が建っています。木造塔身の軸部は平面円形でやや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し、内部には四天柱を立てています。 伏鉢部の上に12本の側柱および四天柱を配して上層をなしています。塔身は赤漆塗りとし、宝形屋根は瓦棒銅板葺きとしています。附(つけたり)指定の宝塔は初層四天柱の内に安置され、意匠は本塔に類似しています。 本殿 本殿とは、本師(釈尊)のおわします殿堂との意味です。 1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていましたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移されています。 本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められています。他に、四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を安置しています。 出典:Wikipeida 仁王像 本殿正面を入ると左右に祀られています。彫刻家の圓鍔勝三の作になります。モデルはアントニオ猪木(当時20歳代[5])とのことです。元は仁王門に祀られていましたが、近年修理のため撤去され、修理後は本殿に場所を移しています。 松涛園 本殿裏、朗峰会館北側に位置しています。 小堀遠州の作庭です。1868年(明治元年)4月、西郷隆盛と勝海舟が江戸城明け渡しの会見をした場所でもあります。 隆盛の弟西郷従道が揮毫した西郷・勝両雄会見碑が園内に残っています。1991年(平成3年)に園内の改修が行われました。 園内には「根庵」「鈍庵」「松月亭」「浄庵」の茶室があります。 「根庵」は三井の祖、益田鈍翁(考)庇護厚かった陶芸家大野鈍阿の住まいでした。この建物と「鈍庵」の二棟を裏千家より寄贈され移築したものです。「鈍庵」に対して根庵と名付けられ、八畳間の茶室二間、一回の最大収容人数は五十名です。 「鈍庵」は四畳中板の茶室で栗材を使った建物です。「鈍庵」の名は、大野鈍阿が自らの名にちなんで付けたものです。「松月亭」は庭の西の小高い見晴らしの良い場所に建てられた四阿で、茶会では立礼席として使用され、床机等を配し六十名の席を作ることができます。 「浄庵」は平成四年に完成した茶室で庭園の一番高いところにあり、国賓などを接遇できる茶室は、法華思想である「水」にちなみ「浄庵」と命名されています。 池上本門寺の秀逸な日本庭園 松濤園 撮影 青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2016-4-4 つづく |