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身延山久遠寺 伽藍3
Houmotsukan of Kuon Temple in Mt.Minobu

青山貞一・池田こみち (環境総合研究所顧問)
 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年8月19日
 

本堂内部
Source: WikimediaCommons:myself - CC0, リンクによる


身延山総合目次  2022年5月分は最下段(本遠寺1~日朝堂までです)!
久遠寺  伽藍1  伽藍2  伽藍3  伽藍4  伽藍5  宝物館1  宝物館2
奥之院 塔頭  宿坊  西谷御廟1  西谷御廟2  西谷御廟3  西谷御廟4
お万の方像1   お万の方像2   お万の方像3   七面山・敬慎院
本遠寺1 本遠寺2 養珠院廟所 日遠廟所 日朝堂・廟所 日朝堂・本門寺




現在の伽藍配置図 出典:久遠寺


伽藍3

斜行エレベーター


 2009年、五重塔の附帯事業の一つとして斜行エレベーターが完成しました。

 この斜行エレベーターは西谷せいしん駐車場から本堂や五重塔などがある久遠寺の境内へ階段を使わずに一気に登ることができます。この斜行エレベーターは、無人運転で無料です。


斜行エレベーター全景
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900




斜行エレベーター西谷駐車場側の駅
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900




斜行エレベーター 駐車場から境内方面を望む
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900




斜行エレベーター 自動運転のゴンドラ内部の池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900




斜行エレベーター 境内から駐車場方面を望む
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900



 斜行エレベータで登り、左側に出て少し行き、左側が本当です。一方、菩提亭から登り切った正面がj本堂となります。

・本堂(ほんどう)

 
本堂は1985年、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建されました。間口32メートル、奥行51メートル。一度に1,500人の法要を奉行できます。

 本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊師利菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっています。

 作者は日蓮大聖人坐像を除き慶派の流れをくむ江里宗平・江里康慧親子です。(作者のwebサイト)冬季6時、夏季5時30分より朝の勤行が執り行わます。天井画の墨龍は加山又造の作です。



◆久遠寺の本堂
 日蓮大聖人の御魂が棲む日蓮宗の総本山


 天災や疫病が相次ぎ、末法の世を呈した鎌倉時代に、お釈迦様の説かれた「法華経」こそが人々を救う正しい教えであるとして布教された日蓮大聖人。身延山久遠寺は、日蓮大聖人がこの地の地頭、波木井南部実長公の招きによって入山され、晩年の九ヶ年間を心安く過ごされた霊山です。

 日蓮大聖人はこの地で厳しい生活を送りながらも、法華経の読誦・門弟の教育・大曼荼羅本尊の揮毫などをされて過ごし、法華経の声満つるこの身延山こそが法華経の根本道場であるとされました。最後には「いずくにて死に候とも九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に建てさせ給へ、未来際までも心は身延山に住むべく候」とのご遺言を遺され、身延山にご遺骨の奉られる廟墓が築かれました。

 以来750年もの間、法華経の聖山として、また日蓮大聖人のお山(祖山)として、日々人びとの参詣が絶えることはありません。

ごあいさつ

 750年の長きに亘り連綿と歴史を紡ぐ身延山久遠寺。

 宗祖棲神の霊地身延山では 各種研修会や修行体験を開催しています。また身延山に寄宿しての僧侶育成制度も設けています。

◆由緒

 鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長公(さねなが)公の領地でした。

 日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。

 翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。

 その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。

 日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は連綿と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。日蓮聖人が法華経を読誦し、法華経に命をささげた霊境、身延山久遠寺。総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。


出典:日蓮宗ポータルサイト



久遠寺本堂 2021年8月11日
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900




本堂前の青山貞一
撮影:池田こみち iPhone  2021年8月11日




久遠寺本堂前
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900  2021年8月11日




祖師堂から見た本堂(右)と五重塔
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900  2021年8月11日




本堂内部
Source: WikimediaCommons:myself - CC0, リンクによる


- 五重塔(ごじゅうのとう)


 2009年5月、明治8年の大火による焼失より134年ぶりによみがえった宝塔です。木材は全て国産を使用し、設計から工法にいたるまで400年前に建てられた元和の塔を復元・再建しました。

 初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立によります。寛文3年(1666年)移築、文政12年(1829年)焼失。2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(
1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失しました。

 現在の五重塔は3代目で2008年竣工、大成建設施工。2009年に落慶法要が行われました。





重塔
撮影:池田こみち iPhone




五重塔
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900




斜行エレベーター駅近くから見た五重塔と本堂(左)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900




本堂、祖師堂側から見た五重塔
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix 9900



五重塔内部
Source: WikimediaCommons:myself - myself, CC0, リンクによる


・大鐘楼


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


山梨県 明治/1882
木造、瓦葺、面積24㎡ 1棟

 山梨県南巨摩郡身延町身延4252
 登録年月日:20180510

 宗教法人身延山久遠寺
 登録有形文化財(建造物)

 祖師堂の前方に建つ方三間の吹放ち形式の鐘楼。東西棟の入母屋造本瓦葺で、切 石積基壇に太い円柱を立てて、貫で固めるが、中央間は内法虹梁大瓶束とする。組物は三手先詰組で、二軒繁垂木の深い軒を支えた重厚なつくりであり、丸彫や籠彫の彫刻で要所を飾る。


 以下は祖師堂かあみた大鐘楼です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


伽藍4へつづく