大野山本遠寺3 Honnon Temple in Mt.Ohno 養珠院御廟所 青山貞一・池田こみち Teiichi Aoyama / Komichi Ikeda 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年5月15日 |
本遠寺(ほんのんじ)の御養珠院廟所前の池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 身延山総合目次 2022年5月分は最下段(本遠寺1~日朝堂までです)! 久遠寺 伽藍1 伽藍2 伽藍3 伽藍4 伽藍5 宝物館1 宝物館2 奥之院 塔頭 宿坊 西谷御廟1 西谷御廟2 西谷御廟3 西谷御廟4 お万の方像1 お万の方像2 お万の方像3 七面山・敬慎院 本遠寺1 本遠寺2 養珠院廟所 日遠廟所 日朝堂・廟所 日朝堂・本門寺 以下は 本遠寺1 の再掲である。 本遠寺開山までの経緯 晩年の徳川家康が最も寵愛した養珠院(お万の方)は天正5年(1577年)に生まれ、17歳で家康(51歳)の側室となる。 22歳の時に日蓮宗信徒の養父母を亡くし、仏教への帰依を深めた。慶長9年(1604年)行学に優れた心性院日遠が33歳で身延山久遠寺に晋山すると、お万の方はその高名を知り日遠に師事した。 慶長13年(1608年)徳川家の菩提寺である浄土宗増上寺(東京都港区芝)の学僧・廓山と、当時が日蓮宗不受布施派だった京の妙満寺27世・日経が江戸城で宗論(慶長宗論)を交わし、日経が敗れた。 すると徳川家康は日蓮宗の各山寺院に、日蓮が他宗を折伏するために唱えた「四箇格言」の一つ「念仏無間」は経典にない空論だという誓状を提出するよう迫った。 総本山身延の22世であった日遠は、誓状の提出を拒み、再宗論を求めて抗議したため、謀反者にされ安倍川の河原で磔刑に処される事となった。 これを知ったお万の方は、師事した日遠と共に自らも処刑されると徳川家康に願い出た。家康はお万の方の信仰心と覚悟を知り日遠を赦したという。 その後、日遠は刑余の身をはばかり身延山を出て大野の庵で隠棲する。お万の方は二人の子供、すなわち紀州の徳川頼宣と水戸の徳川頼房に命じ、大野に大伽藍を寄進させた。これが今の本遠寺となる。 本遠寺の歴史と養珠院の墓所 ・慶長14年(1609年)日遠は養珠院の帰依を受け、本遠寺を建立する。 ・正保3年(1646年)徳川家光は朱印地260石を与える。 ・慶安3年(1650年)徳川頼宣、徳川頼房の寄進により、伽藍を整備する。 ・承応3年(1653年)養珠院の葬儀を行い、墓所を整備する。 ・慶応3年(1867年)火災により、本堂・鐘楼堂以外を焼失する。 ・1932年(昭和8年)本遠寺41世・日我の発願により、宝蔵を建立する。 ・1986年(昭和61年)本堂・鐘楼堂が国の重要文化財に指定される。 本遠寺に向かって左側をかなり進むと、石階段があり、高台の上に養珠院(お万の方)の御廟所がある。さらに高台を左側に進むと、日音上人の御廟所あある。 養珠院(お万の方)と日遠上人の御廟所(墓所)の位置 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 焼香台 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 以下は上段からみた石階段 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 以下は池田こみちによる灯篭の院号及び年号確認。祖母養珠院となっている。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 以下は、養珠院の墓とその西にある日遠上人の御廟所の概要である。出典は、山梨県教育委員会 身延町教育委員会である。 御墓所の概要 承応二年(1953)養珠院が没すると、遺言により日遠上人の御廟のある当寺に葬られた。翌年、長子頼宣が母の菩提を弔うために造立したのが本墓所である。 以下に本墓所の概要を示す。 ◆山梨県指定史跡 徳川家康側室養珠院墓所(上の写真のテキスト化) 所有者 大野山本遠寺 平成二十年五月八日指定 養珠院お万の方は、徳川家康の側室として、紀州藩祖徳川頼宣、水戸藩祖徳川頼房を生んだ。法華経信仰に篤く当寺のほか、身延山久遠寺をはじめ多くの寺院の外護を尽くした。承応二年(1953)養珠院が没すると、遺言により日遠上人の御廟のある当寺に葬られた。翌年、長子頼宣が母の菩提を弔うために造立したのが本墓所である。 宝筐印塔、玉垣、石門に使われている御影石(花崗岩)は、本町周辺では産出しないもので、『甲斐国志』に石村(現、笛吹市一宮町)の京戸山で採取したとある。また、墓所周辺には紀州徳川家の供養塔や石灯籠、石垣が良好にまとまっている。 本史跡は山梨県の近世大名家の墓制、葬制を物語る希少な遺構である。その壮麗な姿は当時最上級の技術や石材により造りだされ、徳川家の盛時を偲ばせる。また、灯籠の銘文は一時代における紀州藩重臣の構成や序列を示す良好な史料として優れている。 構造及び形式 ①養珠院の墓 ・宝筐印塔(関西形式) 高さ 4.55m ・玉垣(外柵) 前方部長 8.9m・短辺 5.2m・後方部 6.4m四方 ・石門(平唐門) 高さ 2.73m・間口 2.13m ・石灯籠 ・手水盥(てみずたらい) ②紀州徳川家供養塔 三基 ③石灯籠 十六基 ④石段 ⑤石段 平成21年12月25日 山梨県教育委員会 身延町教育委員会 日遠上人御廟所へつづく |