大野山本遠寺2 Honnon Temple in Mt.Ohno 青山貞一・池田こみち Teiichi Aoyama / Komichi Ikeda 独立系メディア E-wave Tokyo 2022年5月15日 |
大野山本遠寺本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 身延山総合目次 2022年5月分は最下段(本遠寺1~日朝堂までです)! 久遠寺 伽藍1 伽藍2 伽藍3 伽藍4 伽藍5 宝物館1 宝物館2 奥之院 塔頭 宿坊 西谷御廟1 西谷御廟2 西谷御廟3 西谷御廟4 お万の方像1 お万の方像2 お万の方像3 七面山・敬慎院 本遠寺1 本遠寺2 養珠院廟所 日遠廟所 日朝堂・廟所 日朝堂・本門寺 大野山本遠寺本堂を背景にした池田こみち 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 日遠上人について 日遠は元亀3年(1572年)に出生。父は京の連歌師の宗匠・石井了玄。6歳の時、京の本満寺・日重 のもとで出家し南都(奈良)や東山で修学した。 開山・心性院日遠 慶長4年(1599年)に下総(千葉県)の学問所・飯高檀林の化主に推挙された。 ※注)飯高檀林については以下を参照 青山貞一・池田こみち 千葉県3大壇林跡短訪 飯高壇林跡(飯高寺)1 身延22世へ・西谷檀林創設 慶長9年(1604年)には身延山久遠寺22世貫主となって西谷檀林を創設した。 飯高壇林本堂(講堂、千葉県匝瑳市)の正面の青山貞一 撮影:池田こみち iphone しかし4年後、慶長法難に関連して身延から大野へ退隠、養珠院の外護を受け大野山本遠寺を開いた。 晩年、宗門を代表する高僧へ 日遠は受不施派の中心的な僧で、寛永7年(1630年)江戸城内で行われた不受不施派との対論(身池対論)に勝利し、幕命により池上本門寺16世貫主となった。 しかし翌年には弟子・日東に池上を託し、自らは鎌倉経ケ谷に不二庵を構え隠棲、養珠院をはじめ多くの信徒が参詣したという。 晩年は宗門を代表する高僧と仰がれ、師・日重(本満寺12世・久遠寺20世)、日乾(本満寺13世・久遠寺21世)と共に「宗門中興の三師」と評された。 寛永19年(1642年)池上で遷化。墓所は身延の大野本遠寺。著作に「玄義聞書」「法華経大意」「法華文句随聞記」「千代見草」などがある。 養珠院お万の方と日蓮宗 七面山の女人禁制を解く 日蓮宗の守護神・七面大明神をまつる身延の七面山はかつて女人禁制であった。しかし寛永17年(1640年)養珠院お万の方が「女人成仏を説く法華経を守護する七面天女の御山に、法華経を信じる女人が登れぬはずはない」として、登拝口付近の羽衣白糸の滝(山梨県早川町)で水ごりを7日間行って身を清め、女性として初めて登頂を果した。以来、女人禁制は解かれ男女の登詣が盛んになったという。お万の方は七面山女人踏み分けの祖とも称され、その法勲を讃え滝の傍らには銅像が建立されている。 女人成仏とは古来より低い地位にあった女性も仏に成れると説いた法華経の教えである。仏教語の「五障」は女性に五種のさわりがあり成仏できないとするが、法華経の提婆達多品では女性が成仏できる証として八歳の竜女の即身成仏を説く。日蓮は法華経の勝れる点として女人成仏を強調した。 日蓮宗発展の礎・各地に墓所 日蓮宗の熱心な信徒であった養珠院お万の方は丹誠厚い外護で新寺建立に励んだ。本遠寺創建時の大伽藍寄進の他にも、六老僧・日持の遺蹟である松野の蓮永寺を駿府城の東北に再興。また身延山久遠寺・池上本門寺・和歌山感応寺を始め、主な寺に堂塔伽藍を寄進して寺観を整備するなど日蓮宗の霊跡復興に尽力した。お万の方が江戸時代の日蓮宗発展の礎を作ったともされ、その功績から墓所の数は多く各地で祀られている。 養珠院お万の方は承応2年(1653年)江戸紀州邸で没したが、遺骨は遺言により大野山本遠寺に葬られ、墓所は師・心性院日遠の墓の傍らに建立された。息子の紀州・徳川頼宣は和歌山に養珠寺を、水戸・徳川頼房は太田に蓮華寺(明治に久昌寺と合併)を建立し母の菩提を弔った。 伊豆加殿の日昭門流・妙国寺の信徒だった養父・伊豆河津城主の蔭山氏広が葬られた玉沢妙法華寺にもお万の方の墓所がある。また、お万の方が堂塔伽藍を寄進した池上本門寺にも紀州徳川家墓所(大田区史跡)があり、その中に養珠院お万の方の墓がある。 平成30年 加歴晋山式 2018年(平成30年)本遠寺63世・近貫龍が貫首を退任。加歴晋山式が執り行われ、宗務総長も務めた千葉県市川市・法蓮寺の渡邊照敏が64世に、東京都江戸川区・感應寺の新井貫厚が65世に加えられた。そして東京都世田谷区・幸龍寺の髙佐日瑞(英長)が66世貫首に就任した。 本遠寺の略歴 ・慶長14年(1609年)日遠は養珠院の帰依を受け、本遠寺を建立する。 ・正保3年(1646年)徳川家光は朱印地260石を与える。 ・慶安3年(1650年)徳川頼宣、徳川頼房の寄進により、伽藍を整備する。 ・承応3年(1653年)養珠院の葬儀を行い、墓所を整備する。 ・慶応3年(1867年)火災により、本堂・鐘楼堂以外を焼失する。 ・1932年(昭和8年)本遠寺41世・日我の発願により、宝蔵を建立する。 ・1986年(昭和61年)本堂・鐘楼堂が国の重要文化財に指定される。 文化財 重要文化財(国指定) ・本堂 - 慶安3年(1650年)建立、入母屋造、檜皮葺、桁行5間、梁間7間。 本遠寺(ほんのんじ)の本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 ・鐘楼堂 - 慶安3年(1650年)建立、入母屋造、檜皮葺、桁行3間梁間2間、 吹き放し重層建築。 本遠寺(ほんのんじ)の鐘楼 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 山梨県指定文化財 ・木造伝釈迦如来立像(付 黒漆塗厨子) - 1980年(昭和55年)9月18日指定 木造漆箔・玉眼。像高は97.8センチメートル。宝蔵に安置されている釈迦如来像で、黒漆塗の厨子に収められる。胸部には文字と思われる陽刻が確認されるが、詳細は不明。頭部内側の墨書から、文永3年(1266年)に法橋円覚の子法橋覚慶による作と判明する。本遠寺への伝来経緯は不明であるが、寛永18年(1641年)に本像を描いた絵画が伝来していることから、承応2年(1653年)の養珠院没前から伝来していたと考えられている。山梨県指定有形文化財 ・紙本著色日蓮上人図 - 山梨県指定有形文化財 室町時代から作例が見られる七面天女示現伝承を描いた説法図。江戸時代初期の作。寸法は縦127.0センチメートル、横91.5センチメートル。「秀信」の朱文壺型印を持ち、作者は本遠寺所蔵の日重像や日乾像など日蓮宗画像を数多く手がけた狩野元俊であると比定される。『甲斐国志』によれば、本図は養珠院の寄進であると言われ、養珠院の没年である承応2年(1653年)修理銘がある。 ・紙本墨書十如是御書 - 山梨県指定有形文化財 ・銅鐘 - 山梨県指定有形文化財 本遠寺の鐘楼 出典:身延町 ・徳川家康側室養珠院墓所 - 山梨県指定史跡 次頁 養珠院・日遠御廟所 参照 ・クスノキ - 山梨県指定天然記念物 身延町指定文化財 シダレザクラ - 身延町指定天然記念物 その他 ・釈迦如来坐像 - 寛永20年(1643年)日護作 ・日蓮聖人坐像 - 等身大 旧末寺 日蓮宗は1941年(昭和16年)に本末を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼びならわしている。 広潤山法運寺(仙台市若林区連坊) 妙光山興善寺(文京区西片) 法雲山仙寿院(渋谷区千駄ケ谷) 本行山昌善寺(韮崎市旭町上條南割) 徳栄山実成寺(伊豆の国市原木) 高現山真立寺(三島市川原ケ谷) 東光山法善寺(静岡県駿東郡長泉町竹原) 正福山慶音寺(静岡県田方郡函南町仁田) 観富山龍華寺(静岡市清水区村松) 三光山道善寺(一宮市牛野通) 智光山誠証寺(岩出市根来) 良円寺(山梨県南巨摩郡身延町大野)塔頭 塔頭の良円寺(山梨県南巨摩郡身延町大野) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 本遠寺境内にある五社神社 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-5-15 所在地情報 所在地 山梨県南巨摩郡身延町大野839 本遠寺3・養珠院廟所へづづく |