江戸・南品川短訪 鈴ヶ森刑場跡2 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年10月20月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合目次 ①品川歴史館 ②品川宿 ③中世の品川 ④中世の寺院 天妙国寺1 ⑤中世の寺院 天妙国寺2 ⑥中世の寺院 天妙国寺3 ⑦品川の生活と文化 ⑧庭園・茶室・書院1 ⑨庭園・茶室・書院2 ⑩庭園・茶室・書院3 ⑪今の天妙国寺を視察 ⑫天妙国寺の庭園と茶室 ⑬天妙国寺の歴史・寺宝 ⑭鈴ヶ森刑場跡1 ⑮鈴ヶ森刑場跡2 ⑯鈴ヶ森刑場跡3 ⑰鈴森山大経寺 ⑱旧東海道品川宿まち歩き ⑲<参考>安田善次郎 ◆鈴ヶ森刑場跡 江戸時代には6種類の処刑があったことが知られてています。 ①斬首刑(軽) 斬首は3種類ありました ②斬首刑(中) ③斬首刑(重)=獄門 ④火刑 火炙り ⑤磔刑 はりつけ ⑥鋸刑 鋸を使う ◆火炙り刑 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 出典:明治大学博物館 江戸時代の日本では、火刑は付け火(放火)を行った者などに適用されました。市中引き回しを終え刑場に引き立てられた罪人は下働きの非人が馬から下ろし、竹枠が組んである柱に縛り付けられる(罪人を縛り付ける縄は燃え落ちないように泥が塗ってあります)。竹枠の周りに萱を積み上げ、顔以外の罪人の体を覆い隠し、足元には薪を積んで踏ませます。 一連の作業が終わると弾左衛門配下の手代が検視役の与力に準備が整った旨を伝えます。検視役の与力は同心に指示をして罪人に間違いないことを確認し、顔を萱で塞ぎます。検視役与力から命令が出されると風上から火がかけられます。周りでは非人がむしろで仰いで火勢を強くします。 罪人が死亡したら最後に止め焼き(男性は鼻と陰嚢、女性は鼻と乳房を火で焼く)という動作を行って処刑は完了となります。その後は磔と同じく三日三晩晒した後、非人が刑場の片隅に死体を打ち捨てました。あとは、烏や野犬などが処理して「無」に帰しました。 名和弓雄が鈴ヶ森大経寺の住職に聞いたところによると、鈴ヶ森では海からの横殴りの風が強烈に吹くため、罪人を包む炎が燃えたり消えたりを繰り返し、罪人は獣のような叫びを上げたといいます。 江戸時代の前期、江戸幕府による処罰の記録『御仕置裁許帳』によると、江戸で放火を行った犯人は未遂を含めて火刑に処されることが多いのですが(放火犯には拷問で牢死する者や中には遠島(島流し)の者もいます)、その刑場は品川と浅草が多く、巣鴨刑場で火刑が行われたケースもあります。江戸では火刑場は品川のみとの誤解もありますが、少なくとも江戸前期では火刑場は品川のみではありません。 ◆磔刑 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 出典:明治大学博物館 刑場において地面に置いた磔柱に縄で手首・上腕・足首・胸・腰部を固縛し衣類を剥ぎ取り(槍で突き上げるために両の乳房から脇腹を露出するよう衣類の一部を剥ぎ、剥いだ布を体の中央で束ねて縛る)、数人掛りで磔柱を立て、柱の下部を地面に掘った穴に入れ、垂直に立てました。磔柱の形状は、男性用が「キ」の字、女性用が「十」の字で、男性用は股間部に、女性用は足の下に体重を支える台がありました。このため男性は大の字の形になり、女性は十の形となって柱に身動きできないように固縛されています。 ◆首洗井戸 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 処刑で切断された首や血が付いた刀や槍を洗っていた井戸です。 つづく |