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江戸・南品川短訪
  

品川宿


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年10月20月
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合目次
①品川歴史館   ②品川宿  ③中世の品川  ④中世の寺院 天妙国寺1  
⑤中世の寺院 天妙国寺2  ⑥中世の寺院 天妙国寺3  ⑦品川の生活と文化
⑧庭園・茶室・書院1  ⑨庭園・茶室・書院2  ⑩庭園・茶室・書院3

⑪今の天妙国寺を視察  ⑫天妙国寺の庭園と茶室  ⑬天妙国寺の歴史・寺宝
⑭鈴ヶ森刑場跡1  ⑮鈴ヶ森刑場跡2  ⑯鈴ヶ森刑場跡3  ⑰鈴森山大経寺 
⑱旧東海道品川宿まち歩き  ⑲<参考>安田善次郎


◆品川宿


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 以下は現在の品川宿の位置を表しています。地図中、右側が海側です。京浜急行で品川駅から南へ一つ目の北品川駅が最寄り駅です。以下の地図の左上に、御殿山の一部が見えます。


出典:グーグルマップ

 なお、品川歴史館の企画展示となっている天妙国寺は、品川宿を南に行った以下のグーグルマップの位置にあります。


出典:グーグルマップ


 品川宿は、東海道五十三次の宿場の一つです。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれていました。


 以下に安藤広重、葛飾北斎の江戸を代表する浮世絵絵師2人による品川宿や御殿山(現在、品川区北品川)の浮世絵を示します。


「品川 日乃出」 歌川広重 『東海道五十三次』 より 御殿山の麓を通過する
大名行列の最後尾を描いている。
出典:Wikimedia Commons


「東海道品川御殿山の不二」 葛飾北斎 『富嶽三十六景』 より
出典:Wikimedia Commons


 以下の写真は東海道 品川宿のジオラマ展示の一部です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:池田こみち iPhone


撮影:池田こみち iPhone


撮影:池田こみち iPhone

 以下は江戸にあった4つの宿場の比較ですが、東海道の品川宿は、旅館数では断然多く、、家の数でも日光道奥州道中の宿についで多いことが分かります。


撮影:池田こみち iPhone

 以下は品川宿の商家・職人の数の詳細であす。

 商家の種類では、宿場だけあって旅館・旅籠の数が一番多く、92軒ある。次は水茶屋が64軒、古着・古道具屋が64軒、荒物屋が59軒、煮売屋が44件、質屋が40件など当時の宿場に住み、働くひとびと、さらに宿場を利用する人々が偲ばれます。

 一方、職種では、大工職が一番多く46人、左官が14人、髪結が12人、桶職が10人などとなっています。


撮影:池田こみち iPhone

  
◆品川宿の遊郭 

 古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていたことが窺われます。

 1772年、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加しました。1843年ころの記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄しました。1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙しています。

 西沢一鳳の江戸見聞録『皇都午睡』(1850)では、幕末当時の賑わいを「高縄より茶屋有て(案内茶屋也)品川宿の中央に小橋有り、それより上は女郎銭店、橋より下は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。 (中略) 女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸・大湊屋など名高し。岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人ども、参宮・金ぴら・大山詣り・富士詣、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。表の間は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、道中女郎屋の冠たるべし。」と書いています。

  出典:Wikipedia


品川宿の繁栄ぶり
出典:ビジネスジャーナル


島崎楼
出典:ビジネスジャーナル


◆宿駅制廃止以降

 1872年(明治5年)の宿駅制の廃止と鉄道の開通によって宿場町としての機能は失われましたが、北品川では多くの遊郭が営業を続けたことから関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域の低地には、地価の安さや水運・用水の便から大規模工場が立地、その周辺の南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並びました。

 その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いきました。旧品川宿地域は第二次世界大戦の戦災をほとんど受けなかったため、戦後も北品川の遊郭は営業を続けましたが、売春禁止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成されました。一方、南品川では1970 年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続き、その従業員らを相手にしていた商店街が衰退しました。

 その後、近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残される形となったが、反面、宿場町特有の歴史的資源が維持され、1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織され、歴史的景観を生かした町の活性化が計られています。

 出典:Wikipedia


つづく