江戸・南品川短訪③ 中世の品川 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年10月20月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合目次 ①品川歴史館 ②品川宿 ③中世の品川 ④中世の寺院 天妙国寺1 ⑤中世の寺院 天妙国寺2 ⑥中世の寺院 天妙国寺3 ⑦品川の生活と文化 ⑧庭園・茶室・書院1 ⑨庭園・茶室・書院2 ⑩庭園・茶室・書院3 ⑪今の天妙国寺を視察 ⑫天妙国寺の庭園と茶室 ⑬天妙国寺の歴史・寺宝 ⑭鈴ヶ森刑場跡1 ⑮鈴ヶ森刑場跡2 ⑯鈴ヶ森刑場跡3 ⑰鈴森山大経寺 ⑱旧東海道品川宿まち歩き ⑲<参考>安田善次郎 ◆中世の品川 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 東都名所品川絵柄の浴衣(復元) 江戸時代後期には、隅田川・飛鳥山花見・江戸城などの名所を題材にした浴衣が作られました。この東都名所の浴衣もその一つで、絵柄には江戸湾の新鮮な魚介類が名産であった品川や芝浦が描かれています。この絵柄の染め方を長板中型(ながいたちゅうかた)といい、模様付けが裏表にぴったり重なり合うように染められているのが特徴です。 出典:品川歴史館 撮影:池田こみち iPhone 出典:品川歴史館 撮影:池田こみち iPhone 旗岡八幡神社大絵馬(複製) 品川区指定有形文化財 神社の絵馬殿に懸けられていた縦1.4m、横1.7mの庵型の大絵馬です。元治元年(1864年)に中延村の竹屋(野村)吉治郎が奉納したもので、欅の板四枚を横に合わせ、周囲を同じ欅材で縁取っています。 白木の生地に猿駒止の図柄を彩色で画面一杯に画いています。この絵は右下の落款によって、今治(愛媛県)出身の画家、沖冠岳(1817~1876)の作品であることがわかります。 沖冠岳は、京都で岸派に学んだ後、江戸に移住し、谷文晁等と交流し、画風の幅を広げている。江戸期の大絵馬の現存例は、本区並びに周辺地区では少なく、民間信仰の様相を示す資料として貴重です。大絵馬は現在、ケースに収められ、社務所に展示されています。 平成21年3月21日 品川区教育委員会 出典:品川歴史館 撮影:池田こみち iPhone 出典:品川歴史館 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 江戸藩邸(江戸屋敷)とは 江戸藩邸(江戸屋敷)は、江戸時代に江戸に置かれた藩邸(藩の屋敷)です。 ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語です。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれていました。 江戸時代、江戸に常住する武家には、江戸幕府から屋敷用地が与えられました。江戸に常住する武家には、将軍家と直接主従関係を結ぶ旗本・御家人と、大名および大名の家臣がいました。このうち、幕府から屋敷用地が与えられたのは、大名、旗本、御家人であり、その屋敷が特に江戸藩邸と呼ばれるのは大名の屋敷です。 通常、大名には、江戸城周辺から江戸郊外にかけて、複数の屋敷用地が与えられていました。大名の屋敷には当該屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)などがあり、これらを総称して江戸藩邸と呼ぶ。すべての大名が上中下の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては、中屋敷を持たない家や、上中屋敷の他に複数の下屋敷を有する家など様々でした。 出典:Wikipedia 鷹場とは 領主が放鷹(ほうよう)(鷹狩)を行うために設定した狩猟の場。留場(とめば),狩場ともいいます。 江戸時代には各地に鷹場が設定されました。1628年3代将軍徳川家光は江戸近郊5里以内の54ヵ村に鷹場の制札を発布しました。1633年には5里外に三家や伊達氏・佐竹氏ら有力大名の鷹場が設定され,鷹匠・鳥見などの職制が整備されました。 しかし5代将軍綱吉の時代になると放鷹は中止され,鷹場役人も廃止されました。1716年吉宗が8代将軍になると放鷹が復活,江戸近郊9領594ヵ村が将軍家の鷹場に指定され,鷹場役人も任命されました。 翌年には三家の鷹場も江戸から5〜10里の地域に設定されました。さらに翌年,将軍家の鷹場では〈領〉を単位とする再編成が行われました。〈領〉は幕府領・私領・寺社領の区別のない一円的な組織で,江戸周辺の村々は個別の領主支配とともに二重の支配を受けました。このとき再編された鷹場制度は1866年に廃止されました。 出典 株式会社平凡社百科事典 なお、目黒区に鷹番という地名が現在まで残っていますが、江戸時代、この地に鷹番屋敷が設置されていた事に由来すると言われます。「鷹場」或いは「鷹場前」の転訛とする説もあります。 出典:Wikipedia 交通 出典:品川歴史館 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 出典:品川歴史館 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 名所江戸百景「高輪うしまち」 出典:Wikimedia Comons 品川湊 品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港でした。1937年(昭和12年)に目黒川の流れが直線化されるまでは、河口は現在より北の品川浦付近にありました。突端は州崎と呼ばれ、利田神社が建っていました。 品川湊のあった品川湾は遠浅で、品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁才船など)の積み替えが行われました。現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたります。 積み替えが行われた理由は、品川以北には浅瀬が広がっており、北に向かって航行可能なのは2つの細い水路だけだったこと[1]や北上する為には、川の流れに逆らって進まなければなかったことが考えられます。小回りの利かない大型廻船の貨物は波の穏やかな湾内で、小型廻船に積み替える方が合理的だったのです。 荷物を受け取った小型廻船は河川を通じて北関東や香取海にまで至り、西国との流通路を形成しました。 歴史 中世 鎌倉時代には、鎌倉との関係が深くなった。御家人として品川氏が置かれていました。北条氏得宗が掌握する、武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されています。 室町時代には六浦に代わり、神奈川湊(横浜港)と共に東京湾有数の湊へと成長しました。浅草や江戸湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊でした。 品川湊は伊勢・熊野と結ぶ、太平洋航路で栄えました。中世の太平洋水運を担っていた伊勢神宮(伊勢大湊)や、熊野三山とのつながりが強いのです。金沢文庫の「湊船帳」によると、南北朝時代末期の明徳3年(1392年)1月から9月までの間に、伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされます。これらの物流は、鈴木道胤や榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人)が担っていました。 品川湊の問屋(土倉)は、鎌倉府の財政基盤の1つでした。称名寺や円覚寺の造営料も徴収されました。鎌倉府は直轄地化を進めました。領主であった品川氏は1424年(応永31年)、鎌倉公方足利持氏に所領を没収されました。 1450年(宝徳2年)、足利成氏は鈴木道胤の蔵役を免除し、港や町の運営を行わせました。1455年(享徳3年)、享徳の乱が勃発。足利成氏は古河に退去しました。太田道灌は御殿山の居館伝説もありますが、1457年(長禄元年)、扇谷上杉家の拠点として江戸城を築城しました。一方、神奈川湊は山内上杉家の長尾忠景の所領となっており、品川湊は両上杉に挟まれる形となりました。 1470年(文明2年)、鈴木道胤は河越城まで出向いて太田道灌の父、太田道真主催の連歌の会「河越千句」を手伝っています。また品川湊の商人である宇田川清勝は1466年(寛正7年)、享徳の乱の激戦の1つとして知られる五十子の戦いで戦死ましした。 戦国時代、品川湊は大規模な米の集積地となっていました。兵糧米を求める扇谷上杉氏や後北条氏、上総武田氏、安房里見氏に狙われました。妙国寺などの神社仏閣や品川湊の町人は各勢力の制札を購入し、略奪に備えました。 1524年(大永4年)、北条氏綱は江戸城を攻略。品川湊の支配権も後北条氏に移りました。1526年(大永6年)、後北条氏に敵対する里見義豊の攻撃を受けました。後に北条氏康から甥にあたる古河公方足利義氏の御料として献上されました。 近世 江戸時代、品川浦は品川沖と呼ばれ、菱垣廻船や樽廻船などの貨物船でにぎわいました。一方、旅客の海上輸送は宿場を保護するため、規制されていました。江戸と木更津(木更津船)や、江戸と品川宿など一部の例外のみが認められていました。 幕末、品川台場の外側は外国船に公開されました。幕府の軍艦も停泊するようになりました。1868年(慶応4年)、江戸が陥落すると榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて脱出しました。明治時代になってからも、軍艦の停泊地としても利用されました。 町 中世 「千葉妙見大縁起」によると、鎌倉時代末期の1275年には、品川宿が形成されていた。室町時代には有徳人の寄進などにより、妙国寺(現天妙国寺)など多くの寺院が建てられ、都市化がすすんだ。高層建築が立ち並び、東国の玄関港としての威容を誇っていた。中世の品川は、川を境として南北に分かれて町場が形成されていた。北品川には清徳寺、南品川には海晏寺があった。「都市的な場」には、多くの宗教者や連歌師が訪れていました。日蓮宗が積極的に活動した事が知られています。 海晏寺 「龍燈松」の伝承があり、灯台的な機能を持っていたと考えられます。榎本道琳の後援を受けます。本尊は鮫洲の由来です。鮫は鈴木氏・榎本氏・宇井氏など熊野三党(三苗)の家紋です。 近世 江戸時代には東海道五十三次の一つである品川宿が併設されました。 上記の出典:Wikipedia 名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」 出典:Wikimedia Comons 名所江戸百景「品川すさき」 出典:Wikimedia Comons 撮影:池田こみち iPhone 品川浦 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-19-28 かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため昭和37年(1962)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。 現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べています。早朝や夕暮れ時は独特の風情があり、撮影や写生、吟行にもおすすめです。水辺と背景の品川の古い家並み、その向こうの品川駅周辺の再開発のビル群との対比は東京を象徴する風景です。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のもの。 以下も品川浦の船だまりの現在です。 撮影:池田こみち iPhone 1019-19-28 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-19-28 以下は品川浦の船だまりの現在です。 出典:グーグルマップ・ストリートビュー 以下は船溜まりから屋形船に乗船する場所です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-19-28 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-19-28 以下以下は品川浦にある船溜まりの一案奥になります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2019-19-28 撮影:池田こみち iPhone 1019-19-28 御菜浦(おさいうら) 御菜浦は、領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のことを指します。 概要 前近代においては、城下近郊にある漁村などを指定して海産物を献上させたり、その他海上における夫役を負担させる代わりに、漁業などに関する特権を付与することが行われていました。その指定された漁村が御菜浦です。 特に著名なのは、徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称されました。 これらの漁村は後北条氏以前から御用を勤めていた漁村と上方方面から招き入れられて新たに漁村として開拓されたものに分けられます。これらの漁村は幕府に海産物を献上する代わりに東京湾における漁業における特権を有していました。しかし、江戸城内の需要の増加や江戸の都市発展に伴い、魚問屋からの買い上げや他浦からの献上も行われるようになり、御菜八ケ浦からの献上の地位が低下し、寛政4年(1792年)からは代金納とされました。これに対して御菜八ケ浦からは特権維持のために初穂献上の願い出を行うなど、特権の維持に努めていました。 上記の出典:Wikipedia つづく |