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江戸・南品川短訪
  
鈴ヶ森刑場跡3

青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年10月20月
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
総合目次
①品川歴史館   ②品川宿  ③中世の品川  ④中世の寺院 天妙国寺1  
⑤中世の寺院 天妙国寺2  ⑥中世の寺院 天妙国寺3  ⑦品川の生活と文化
⑧庭園・茶室・書院1  ⑨庭園・茶室・書院2  ⑩庭園・茶室・書院3

⑪今の天妙国寺を視察  ⑫天妙国寺の庭園と茶室  ⑬天妙国寺の歴史・寺宝
⑭鈴ヶ森刑場跡1  ⑮鈴ヶ森刑場跡2  ⑯鈴ヶ森刑場跡3  ⑰鈴森山大経寺 
⑱旧東海道品川宿まち歩き  ⑲<参考>安田善次郎


◆鈴ヶ森刑場跡 主な処刑者

八百屋お七

八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)~天和3年3月28日(1683年4月24日)、は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女です。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっています。

 
月岡芳年 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)       八百屋お七。二代目 歌川国輝画(1867)
出典:Wikimedia Commons                 出典:Wikimedia Commons



歌川豊国 櫓のお七人形振りの場面
出典:Wikimedia Commons 

江戸の大火事と大円寺・八百屋お七

 
行人坂にある大円寺には見るべきものの多い古刹だが、幅4km長さは24km先まで延焼し、1万5000人が死亡し日本橋が壊滅、上野も焼けた明和の大火(明和9年2月29日(1772年4月1日))の火元になった寺でもあります。石造五百羅漢像は目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られ

 明和の大火の約90年前の天和の大火(天和2年12月28日(1683年1月25日))で焼け出された
八百屋お七が避難先の寺で出会った吉三に恋焦がれて、吉三に再び会いたい一心で放火し、火あぶりとなった事件で、お七の恋人吉三は後に西運上人となりその墓は大円寺にある(お七の恋焦がれた相手の名や素性は諸説あります。吉三=後の西運上人はその1説です)。

 お七の墓は故郷の千葉県八千代市の長妙寺や文京区白山の円乗寺にありますが、恋焦がれた吉三と墓が別なのは気の毒と1955年には
大円寺に吉三とお七の共同の墓(比翼塚)が置かれました


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-6-1



◆丸橋 忠弥

 丸橋 忠弥( - 慶安4年8月10日(1651年9月24日))は、江戸時代前期の武士(浪人)であり、慶安の変で江戸幕府の転覆を図ったとして鈴ヶ森刑場で磔柱による死刑となっています。


初代市川左團次の丸橋忠弥
出典:Wikimedia Commons 

 出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではありません。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべ もりずみ)と設定されています。

 友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開きます。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担します。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため、幕府に計画が露見しました。そのため捕縛され、鈴ヶ森の刑場で磔にされて処刑された最初の罪人となりました。

 辞世の歌は 「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」。
 墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺。

 一説に新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋だといいます。

 上記の出典:Wikipedia。

 
 以下は、東京都豊島区にある丸橋 忠弥の墓です。



出典 小学館デジタル大辞泉について


丸橋忠弥を演じた人物

 市川右太衛門 - 『丸橋忠弥』(映画)。1928年、市川右太衛門プロダクション。)
 嵐寛寿郎 - 『丸橋忠弥』(映画)。1933年、嵐寛寿郎プロダクション。)
 小沢栄太郎 - 『慶安水滸伝』(映画。1954年、松竹。)
 田崎潤 - 『麝香屋敷』(映画。1955年、大映。)
 山形勲 - 『神変麝香猫』(映画。1958年、東映。)
 近衛十四郎 - 『ひばり捕物帖 折鶴駕篭』(映画。1960年、東映。)[1]
 今井健二 - 『忍びの者 伊賀屋敷』(映画。1965年、大映。)
 藤木悠 - 『落語野郎 大爆笑』(映画。1967年、東宝。)
 菅貫太郎 - 『お庭番』(テレビドラマ。第17.18.19話「みな殺しの唄」 1968年、NTV。)
 長門勇 - 『てなもんや二刀流』(テレビドラマ。1970年、朝日放送)
 加東大介 - 『江戸を斬る 梓右近隠密帳』(テレビドラマ。1973年、TBS。)
 佐藤允 - 『徳川三国志』(テレビドラマ。1975年、NET。)
 岩尾正隆 - 『影の軍団 服部半蔵』(映画。1980年、東映。)
 瑳川哲朗-『長七郎江戸日記』(テレビドラマ。1985年、日本テレビ。)
 榎木孝明 - 『寛永風雲録』(テレビドラマ。1991年、日本テレビ。)
 照英 - 『柳生十兵衛七番勝負 最後の闘い』(テレビドラマ。2007年、NHK。)

 上記の出典:Wikipedia


◆白子屋 お熊

白子屋事件

 享保11年10月17日の早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘・くまの夫である又四郎が、白子屋の下女・きく(当時16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて抵抗したところ、頭部に傷を負いました。又四郎の傷は浅く、きくを取り押さえた後助けを呼んだため、大事には至りませんでした。

 白子屋側は、婿養子である又四郎の実家に示談を持ちかけたが、又四郎の実家は又四郎・くま夫婦の不仲が噂になっていること、きくの犯行動機が不明であることから白子屋を怪しみ、10月20日に、町奉行所に事件の調査を訴え出ました。

 奉行所が下手人であるきくを取り調べたところ、きくは店主・庄三郎の妻でくまの母であるつねに犯行を教唆されたことを自白しました。きくの証言を得た奉行所が、つね・くま母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供したのです。

 そもそもくまと又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことでした。くまは夫を嫌い、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて手代の忠八と関係を持っており、母のつねも娘の密通を知りながらこれを容認していました。

 くまは離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば金を返さねばならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と結婚できる」と考え、共に殺害計画を練るようになりました。

 最初は病死に見せかけた毒殺を計画し、出入りの按摩であった横山玄柳という盲人を騙して又四郎に毒を盛らせましたが、彼は体調を崩すに留まり、死に至りませんでした。毒殺計画が失敗したことによって焦ったつねとくまは、きくを脅して又四郎に切りかかるように仕向けたが、これも前述の通り失敗して殺害計画が露見、白子屋の関係者は各々裁かれることとなりました。

 妻子の監督を怠り、世間を騒がした罪を問われた店主・庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いとなり、下手人のきくは死罪、密通をそそのかした罪でひさは市中引き回しの上死罪、密通の罪で手代忠八は市中引廻しの上獄門、従犯のつねは遠島、主犯であるくまは密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ町中引廻しの上獄門と仕置が下りました。

 くまは結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けつけました。裸馬に乗せられたくまは観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったといいます。

 殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や処刑時の派手なパフォーマンスなどから江戸で大変な波紋を呼び、『近世江都著聞集』、『享保通鑑』、『兎園小説余録』、『江戸真砂六十帖広本』、『武江年表』などに事件が取り上げられています。

 上記の出典:Wikipedia

 なお、本件の取り調べは、大岡越前が担当しています。



出典:インスタズ https://www.instazu.com/media/1836284264121743998



◆平井権八(白井権八とも)


出典:Wikimedia Commons

 平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士です。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られています。

 因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)しました。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となります。

 やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされています。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れましたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされています。

 1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。

 享年25(満23-24歳没)。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされています。同寺に「比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)の門前に現存しています


権八・小紫 比翼塚目黒不動瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)
出典:Wikimedia Commons


つづく