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カステッランマーレ・ディ・スタービア( Castellammare di Stabia) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる <ヴェスヴィオ総合メニュー> カステッランマーレ・ディ・スタービア(コムーネ) スタビアエ遺跡1 スタビアエ遺跡2 スタビアエ遺跡3 スタビアエ遺跡4 スタビアエ遺跡5 スタビアエ遺跡6 スタビアエ遺跡7 スタビアエ遺跡8 スタビアエ遺跡9 スタビアエ遺跡10 スタビアエ遺跡11 スタビアエ遺跡12 スタビアエ遺跡13 スタビアエ遺跡14 スタビアエ遺跡15 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆スタビアエ遺跡1 Source:Wikipedia English 以下はスタビアエの位置です。ポンペイの真南。ヴェスヴィオ山の南南東にあります。 私達は、ナポリからソレントなどへレンタカーで行くときは、必ずスタビアエを通っていました。 スタビアエの位置 出典:グーグルマップ スタビアエの位置 出典:グーグルマップ スタビアエまたはプテオリ港 Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link <概要> スタビアエ(Stabiae)は、現代の町カステッラ・マーレ・ディ・スタビア(Castellammare di Stabia)の近く、ポンペイの南西約4.5kmに位置する古代都市でした。ポンペイのように、ベスビオ山からわずか16 km(9.9マイル)のこの海辺のリゾートは、西暦79年のベスビオ山の噴火でテフラ灰に大部分が埋もれてしまい、その深さは、浅いところでも、最大5メートルありました。 注)テフラ Wikipediaより テフラとは、アイスランドの地質学者シグルズール・ソラリンソン によって定義された語で、火山灰・軽石・スコリア・火砕流堆積物 ・火砕サージ堆積物などの総称。火山灰などの火山噴出物中の ケイ素酸化物SiO₂ の組成や含有する微量元素を分析することで 起源となった火山の特定が行われる。 スタビアエは、ローマ時代の別荘で最も有名でありまた、最も素晴らしい建築的、芸術的遺跡のいくつかを提供しています。それらは、ローマ時代全体を通じて、保存状態が良く、巨大で、エリートの海辺の別荘が最も集中していた場所でした。別荘はナポリ湾を見下ろす高さ50メートルの岬にありました。 しかし、ポンペイやヘルクラネウムとは異なり、スタビアエは1782年まで発掘後に埋め戻されていたため、旅行者の目的地(観光地)としての地位を確立できず、その後、不当にその影に隠れていました。これらの別荘から取り出された物やフレスコ画の多くは、現在ナポリ国立考古学博物館に収蔵されています。 歴史 スタビアエの市門 Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Link 紀元前7世紀からその良好な気候と、戦略的、商業的な重要性からスタビアエにへの定住/居住が始まり、1957年にグラニャーノ(Gragnano)とサンタ・マリア・ラ・カリタ(Santa Maria la Carita) の間に位置するマドンナ・デッレ・グラツィエ(Madonna delle Grazie)から発見された広大なネクロポリス(墓地/埋葬場所)で見つかった資料に刺激を受けて記録が文書としてまとめられることになりました。 コリント式、エトルリア式、カルシディアン式、アッティカ式などの輸入陶器を含む300を超える巨大墓地ネクロポリスの墓地遺跡は、町が主要な商業的接点を持っていたことを明確に示しています。 15,000㎡(160,000平方フィート)の面積をもつ巨大墓地ネクロポリスは、紀元前7世紀から3世紀の終わりまで使用され、エトルリア人などの新たな人々の到来によって複雑な人口の変化を示し、それに伴って多くの新たな接点が広がっていったのです。 スタビアエには小さな港がありましたが、紀元前6世紀までには、はるかに大きなポンペイの港によってすでに影が薄くなっていました。そこは後にオスカン(オスカン語を話すカンパニアの古代民族)の定住地となりましたが、後に5世紀にはサムナイト(オスカン語を話す古代ローマ部族)がオスカンの町を乗っ取ったようです。 サムナイトの到着により、スタビアエのまちは近くのポンペイの開発のために、突然に社会的、経済的減速に見舞われました。このことは、埋葬がほぼ全くなくなったことからも明らかです。 しかし、紀元前4世紀半ばにサムナイトの影響がより顕著になると、スタビアエはゆっくりと回復し始め、2つの新しい巨大墓地を建設する必要がありました。その一つは、1932年に中世の城の近くで発見され、もう一つは、スカンツァーノ(Scanzano)で発見されました。 おそらく、女神アテナに捧げられたと思われる聖域(サンクチュアリー)が、プリヴァティ(Privati)付近に作られました。 その後、スタビアエは、軍事港となったヌセリア連邦の政治的および行政的体制を採用し、その一部となりましたが、ポンペイ、ヘルクラネウム、ソレントほど自治権を享受していませんでした。 紀元前308年、長い籠城の後、ローマ人に対するサムニウム戦争で降伏を余儀なくされました。 注)サムニウム戦争 Wikipedia ラティウム地方に本拠を構える共和政ローマとアペニン山脈に 居住するサムニウム人部族との間で勃発した戦争。イタリア半 島の諸部族の主導権を巡っての戦いで、紀元前343年から紀元 前290年までの間に断続的に続いた。サムニテス戦争とも。 おおまかな区分として第一次サムニウム戦争、第二次サムニウ ム戦争、第三次サムニウム戦争に区分される。平野での決戦 を得意とするローマと山岳でのゲリラ戦を得意とするサムニウム 人部族の間では一進一退の闘争が続いたが、戦争はローマに 有利に進み、最後にはサムニウム地方はローマの影響下に入 った。 最も初期のローマ時代の証拠は、プリヴァティの聖域で発見された紀元前3世紀にさかのぼるローマとエブサスの硬貨でおそらく、商人によって持ち込まれたと思われます。ポエニ戦争中、スタビアエは、マルクス・クラウディウス・マルケッルス(Marcus Claudius Marcellus)艦隊の若い男性らと共に、古代カルタゴ人に敵対してローマを支援した、と書いたシリウス・イタリクスによると: ラテン語 Irrumpit Cumana ratis, quam Corbulo ducato lectaque complebat Stabiarum litore pubes. 暫定和訳 クマナンは、古代ローマの将軍コルブロの領地に持ち込まれた船をスタビアエ の海岸から引き上げて破壊しました。 注)ポエニ戦争 Wikipedia ポエニ戦争(ポエニせんそう、羅: Bella Punica)とは、共和政 ローマとカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一 連の戦争である。ポエニとは、ラテン語でフェニキア人(カルタ ゴはフェニキア系国家)を意味する[1]。紀元前264年のローマ 軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡ま で3度にわたる戦争が繰り広げられた。 注)マルクス・クラウディウス・マルケッルス Wikipedia 紀元前268年 - 紀元前208年)は、共和政ローマ期の軍人、政 治家。第二次ポエニ戦争でハンニバルに対して果敢に戦闘を 仕掛け「ローマの剣」と称された。「ll」を促音で表記しないことも 多いためマルクス・クラウディウス・マルケルスとも表記される。 注)シリウス・イタリクス(Silius Italicus 28年- 103年) ローマ帝政期の政治家、雄弁家、詩人。正確な生誕地はよく わかっていないが一説によればローマ帝国のパタウィウム (現在のイタリアの都市パドヴァ)で生まれたとされる。 マルクス・トゥッリウス・キケロの影響を強く受け、若い頃に雄弁 家として頭角を現した。皇帝ネロの寵愛をうけ、ネロ治世下の 時にコンスルに就任した。ネロ亡きあとアウルス・ウィテッリウス に急接近し、そのもとで活躍した。その後、アシア属州総督を務 め権勢を振るった。富豪だったことから数多くの芸術家のパトロ ンだった。政界引退後に別荘で詩作活動に入り、長編叙事詩 『プニカ』を著した。晩年に自ら餓死したとされる。 スタビアエ遺跡2へつづく |