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アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2003~2020
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune


スタビアエ遺跡 10
Stabiae Remains 10
 
 
青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

2020年11月30日 独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁


カステッランマーレ・ディ・スタービア( Castellammare di Stabia) Source:Wikimedia Commons CC 表示-継承 4.0, リンクによる

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カステッランマーレ・ディ・スタービア(コムーネ)
スタビアエ遺跡1   スタビアエ遺跡2   スタビアエ遺跡3   スタビアエ遺跡4
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スタビアエ遺跡13  スタビアエ遺跡14  スタビアエ遺跡15

 本稿の解説文は、現地調査に基づく解説、写真撮影に加え、Wikipediaのイタリア語版を中心に英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆スタビアエ遺跡10

アンテローズとヘラクレス邸(Villa of Anteros and Heracles)

 この別荘(ファウノ邸またはサン・マルコ教会の別荘とも呼ばれます)は、カステラマーレ・ディ・スタビア(Castellammare di Stabia)とグラニャーノ(Gragnano)の境界に位置するレジャー用の別荘(villa otium)で、サン・マルコ邸から数メートルのヴァラーノ高原にあります。これは、1749年のブルボン王朝による古代のまちの発掘調査で見つかった最初のスタビアエの別荘ですが、1779年にカール・ウェーバーが再度探検しました。しかし、調査が行われ、価値があると考えられるすべての物品が略奪された後、別荘は埋められたまま放置されていました。


Plan of Villa del Fauno ファウノ邸の平面図
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 地滑りによって別荘の出入口やドアのヒンジなどのさまざまな構造物が露出し、2006年にボランティアのグループがヴァラーノの尾根をかたづけたときまで、この場所は埋もれていました。初めて遺骨を回収しようと言う人々の熱意と主導的な活動でしたが、その後、資金不足に陥り、別荘は再び草ボウボウとなりました。

 この別荘について知られていることの多くは、ブルボン家の解説に由来しています。

小さな列柱つき中庭(ペリスタイル)の南西の角には、家内の神を祀る小さな社(ララリウム)の跡がありました。その壁の窪みには、おそらくリビア(Livia)または小アントニア(Antonia Minor)と思われるブローチを飾った巻き毛のユリウス・クラウディウス朝の若い女性が描かれています。これは、現在ナポリ博物館に収蔵されています。その隣に祭壇があり、幅約1.5mの赤い文字の飾り額の上の壁に、アウグストゥス時代またはティベリウス時代から次のように書かれています。

  ANTEROS L HERACLIO SUMMAR MAG LARIB ET FAMIL D D
  ⇒意味が分かりません!!

 それは、解放奴隷のアンテロースや財務官僚だったヘラクレウスによる古代ローマ時代の守護神的な神々(Lares)と父系家族(Familia)への捧げ物であり、おそらく祭壇そのものが奉納だったのではないかと報告しています。アンテロース、ヘラクレウスともに、貴族の政務官であり祭式の取り仕切り役でした。

 彼らには、村の文書を保管し、税金を徴収し、祭りを取り仕切るという任務がありました。時には、多数の秤や金貨が発見されました。

 また、小枝をもったヴィーナスと思われる女性を掘ったカメオも発見されました。

 注)lararium(ララリウム)
  Part of the house set aside as a shrine or chapel for the household gods.
  寺院や礼拝堂のように家の神々を祀るために設置された家の中の一部分
  (窪みをつけて設置する場合もある)。


 注)Livia (Livia Drusilla) Wikipediaより
  リウィア・ドルシッラ(Livia Drusilla, 紀元前58年1月30日 - 紀元29年)は、
  古代ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻で2代皇帝ティベリウスの母。
  またアウグストゥスの遺産の継承者でもあり、ユリア・アウグスタ(Julia Augusta)
  を名乗った。一般には単にリウィアと呼ばれる。

 注)小アントニア(Antonia Minor) Wikipediaより
  小アントニア(Antonia Minor, Julia Antonia Minor, 紀元前36年 - 紀元37
  年)はユリウス・クラウディウス朝の家系に属する皇族の女性。父はマル
  クス・アントニウス、母はアウグストゥスの姉小オクタウィア。姉に同名のア
  ントニアがいる。姉妹を区別するために小アントニアと呼ばれる。

 注)アウグストゥス(時代)Wikipediaより
  紀元前63年9月23日 - 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝
  (在位:紀元前27年 - 紀元14年)。志半ばにして倒れた養父カエサルの
  後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、
  パクス・ロマーナ(ローマでの平和)を実現した。アウグストゥスの当初の名
  前はオクタウィウスであるが彼は成長とともに幾度か名前を変えており、
  混乱を避けるために後代の歴史家は彼をオクタウィアヌスと呼んだが、オ
  クタウィアヌスとは「オクタウィウスだった者」という意味であって、オクタウィ
  ウス自身がオクタウィアヌスの名を用いたことはない

 注)ティベリウス(時代) Wikipediaより
  紀元前42年11月16日 - 紀元後37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇
  帝(在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる
  以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。なお、イエス・
  キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である
  「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(新約マタ 22:17-21、マ
  コ12:14-17、ルカ 20:22-25)の「カエサル」とは、ティベリウスないし彼を含
  めた(皇帝の称号としての) カエサル(=ローマ皇帝)一般のことである。

 注)アンテロース(Anteros) Wikipediaより
  ギリシア神話の返愛の神である。名称は「愛に対するもの」を意味し、相互
  愛や同士愛の象徴とされた。また、恋の復讐者とすることもある。


 注)ヘラクレウス/ヘラクレス( Heracleus) Wikipediaより
  ギリシア神話の英雄。ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中で
  も最大の存在である。のちにオリュンポスの神に連なったとされる。ペルセウ
  スの子孫であり、ミュケーナイ王家の血を引く。幼名をアルケイデース
  (Ἀλκείδης,Alkeidēs)といい、祖父の名のままアルカイオス(Ἀλκαῖος,
  Alkaios)とも呼ばれていた。後述する12の功業を行う際、ティーリュンスに居住
  するようになった彼をデルポイの巫女が 「ヘーラーの栄光」を意味するヘーラ
  クレースと呼んでからそう名乗るようになった。キュノサルゲス等、古代ギリシ
  ア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰された。その象徴
  は弓矢、棍棒、鎌、獅子の毛皮である。
  ローマ神話(ラテン語)名は Hercules (ヘルクレース)で、星座名のヘルクレス
  座はここから来ている。
  (中略・・・アポロンとの闘いのあと、一時、奴隷となった)
  これを受けてヘーラクレースは、ヘルメースに連れられてリューディアの女主
  人オムパレーの元へと赴き、病回復のために奴隷として彼女に仕えることとな
  った。(後略)


 発掘記録とラ・ベガ(La Vega)の詳細な図面から、別荘は3つの部分で構成されていることがわかりました。まず、石の上に横たわる牧神の像の噴水がある小さな列柱つき中庭(ペリスタイル)の周りのサービスエリアです。

 これは別荘の名前の由来となったものですが、場違いに見えます。西側には対称的な区域があり、受付と居間は絵画とモザイクの床で飾られています。南側には二列の柱が並ぶ三重の柱廊玄関があり、その下側には約46mの眺望のよい縁の部分が発掘されました。

 18世紀の文書によると、この別荘はその広い面積(約6000㎡)、その立地位置、および隣接するサン・マルコ邸との類似性などからレジャー用の別荘(villa otium)であっただろうと考えられ、宮廷の所有物であったことが示唆されます。


スタビアエ遺跡11につづく