ミュンヘン・オーストリア短訪 ミュンヘンの歴史と街並み(1) 鷹取敦 掲載月日:2017年10月5日
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■旅程品川駅8月11日(金)14:07発の新幹線で名古屋を経由して中部国際空港に入り、20:10発のアシアナ航空(エディハド航空のコードシェア便)で韓国の仁川国際空港へ、翌日8月12日(土)0:55仁川空港発のエディハド航空でUAEのアブダビ空港へ、9:05アブダビ発のエティハド航空で経由でドイツのミュンヘンに入りました。当初は中部国際空港からアブダビ空港に向かうエティハド航空搭乗の予定でしたが、10名ほどオーバーブッキングで、アシアナ航空便(当初予定の便より1時間早くアブダビ空港に到着)への振り替えに応じる乗客を探していたため、振り替えに応じ、2回乗り換えとなりました。(当初予定は1回乗り換えでしたが、北京で中国の団体客を降ろし機内清掃のために1時間半立ち寄る便でした。) 到着の翌日8月13日(日)にミュンヘンからバスでノイシュヴァンシュタイン城や教会を巡り、8月14日(月)に列車でザルツブルクに移動、8月15日(火)に車でザルツカンマーグートの湖畔の街を訪れハルシュタットに移動、8月16日(水)にハルシュタットから列車でウィーンに移動、8月18(金)の早朝便でベオグラード、アブダビ経由で成田にもどる日程です。 出典:グーグルマップ ■ミュンヘンの歴史ミュンヘンには2泊しました。到着した日は夕方にホテルにチェックイン、2日目はノイシュヴァンシュタイン城等にバスで行き、夜戻り、3日目は朝ミュンヘンを発つため、実質的にミュンヘン市内を回れたのは到着日の夕方の短い時間だけでした。ミュンヘンはドイツ(人口約8267万人)の南部にあるバイエルン州(人口約1244万人)の州都であり、ベルリン(人口約347万人)、ハンブルク(人口約176万人)に次ぐ人口約143万人のドイツ第3の都市です。日本の都市では川崎市と同程度の人口規模です。 現在のミュンヘンは、BMWやシーメンスをはじめとするメーカーや生物工学、サービス産業、金融等の大企業が本社機能をおいている経済の中心地です。 ・塩の交易路としての街の起源 歴史的にミュンヘンは、神聖ローマ帝国の有力な領邦君主であったハインリヒ3世(ザクセン公兼バイエルン公、バイエルン公としてはハインリヒ12世)が、イーザル川に橋を架け、塩の交易路に面した関所と貨幣鋳造と市場の街として12世紀に創建されたと言われています。 この後に訪れたオーストリアのザルツブルクとハルシュタットも塩の交易に深い関係があります。ザルツブルクは「塩の砦」という意味の地名で塩の交易で栄えました。ハルシュタットには世界最古と言われる古代ローマ時代以前にまで遡る岩塩鉱があります。同様にミュンヘンも塩の交易が重要な産業だったのです。14世紀に戴冠した神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世により塩の専売の地位が与えられ、ミュンヘンの強力な経済的基盤となりました。 ・街の発展 15世紀後半には旧市庁舎が拡張され、ミュンヘン最大のゴシック建築であるミュンヘン聖母教会が建築されました。 16世紀にはミュンヘンは対抗宗教改革(カトリック改革:カトリック教会内の改革で宗教改革以前に始まっていた)やルネサンス芸術の中心地でした。 17世紀にスウェーデン王グスタフ2世に占拠されたり、18世紀前半にハプスブルク家の占領下だったこともあります。 ・神聖ローマ帝国の解散とバイエルン王国の成立 1804年に神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝フランツ1世を名乗り、ハプスブルク家の領地をオーストリア帝国としました。その翌々年1806年、バイエルン公国はナポレオンによって王国に昇格され、ミュンヘンはバイエルン王国の首都となり、王国議会が置かれました。皇帝フランツ2世は退位し、帝国の解散を宣言しました。 ・バイエルン王国の消滅 ドイツが第一次世界大戦に敗れた後、1918年、ドイツ革命により、最後のバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、バイエルン王国は消滅します。 ・ヒトラーとミュンヘン 共和制への移行期の混乱の中、1923年にヒトラーをはじめとする右派諸団体によるミュンヘン一揆も起きています。ミュンヘン一揆が失敗に終わりヒトラーは逮捕されますが、ヒトラーが釈放されたあと、ミュンヘンは再びナチの本拠地となっています。ナチの親衛隊によって初の強制収容所であるダッハウ強制収容所がミュンヘンから16km離れた場所に建設されました。 ・街並みの再建 第二次世界大戦後、ミュンヘンの街並みは細部に至るまで再建されています。 ■ミュンヘンの街並みミュンヘン空港に到着しました。今回も移動が多いスケジュールなので、いつものようにバックパッカー姿です。ミュンヘン空港ビルと筆者 撮影:鷹取美加 Nikon COOLPIX S9900 ミュンヘン空港のビルを出るとすぐ前の広場にはモトクロス競技場が設営されており、子供達のモトクロス大会のようなものが行われていました。ミュンヘン国際空港はドイツで2番目に旅客数の多い主要空港ですが、空港ビル前の広場はそこが空港であることを忘れてしまう、まるで駅前広場のような空間でした。空港利用者以外の市民もこの広場のイベントを気軽に楽しむ憩いの場のようです。 ミュンヘン空港前に設営されたモトクロス場 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 空港から鉄道Sバーンに乗ってHauptbahnhof(中央駅)に15:10頃到着しました。 Sバーン ミュンヘン中央駅 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ミュンヘン中央駅からほど近いホテルにチェックインし、街に出かけた時にはすでに16時を過ぎていました。 ホテルからミュンヘン中央駅に向かう通り 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 時間がない中、ひととおりミュンヘンの街の主要部を把握するために、まず旧植物園(Alter Botanischer Garten)の角で音声ガイドのついたホップオンバスに乗り、市街中心部を1周し、その後、徒歩で散策しました。 旧植物園を右手に見てルイーゼン通りを北上するとケーニヒス広場があります(ケーニヒは王という意味のドイツ語)。ここを右折した通りの右手に州立古代美術博物館(Antikensammlung)、左手に古代彫刻美術館(Glyptothek)があります。この2つの建物は正面からみるとほぼ同じデザインで通りにはさんで向かい合っています。 ケーニヒス広場には大きな門が建っています。第2代バイエルン王ルートヴィヒ1世によって1816年に造られました(参考)。ルートヴィヒ1世はフランス王ルイ16世が名付け親で王の名を取ってルイ(ドイツ語でルートヴィヒ)と命名されました。ちなみにルートヴィヒ1世はギリシャ独立戦争(オスマン帝国からの独立)を支援し次男オットーを初代ギリシャ王(オソン1世)として送り込んでいます。(参考)。 ケーニヒス広場の門(プロピュライオン) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 古代美術博物館 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 古代彫刻美術 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 通りを東に直進するとオベリスクの建っているカロリーネン広場です。この広場はパリのエトワール広場をモデルとして1809〜12年に造られました(参考)。 バイエルン王国はナポレオン戦争(1803〜1815年)の間、時期によって立場を変えましたが、この広場が完成した1812年のロシア戦役(ロシアでは「祖国戦争」と呼ばれます)では、ナポレオン側として戦役に参加しました。この広場のオベリスクはこの対ロシアの作戦で犠牲となったバイエルン軍を称えるために立てられたものです(参考)。 カロリーネン広場のオベリスク 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 バイエルンは1806年にナポレオンによって王国に昇格され、ライン同盟の一員となりました。ライン同盟は、ナポレオン1世の圧力により成立したオーストリアを含まないドイツ系の国家連合で、実質的にはフランスの従属国です。ライン同盟の成立によって神聖ローマ皇帝フランツ2世は帝国の解散を宣言しています。(参考) バイエルンはロシア戦役の翌年の1813年にリート条約を結び対仏大同盟に参加してナポレオンに敵対しました。1814年のバイエルン解放戦争でナポレオンからの解放戦争を戦い、1815年にはオーストリア帝国を盟主とした連合体であるドイツ連邦に参加しています。ドイツ連邦は旧神聖ローマ帝国の領域をその範囲としたため、帝国外にも領地を持つオーストリアとプロイセンはドイツ連邦の内外にまたがっていました。ドイツ連邦は1866年の普墺戦争(プロイセンとオーストリアの戦争)により解消されています。(参考) さらに東に進むとオデオン広場に入ります。下はオデオン広場に入って右側(南側)の写真で、正面は将軍堂(フェルトヘルンハレ)、右手がテアティーナー教会、左手がレジデンツ(旧バイエルン王宮、現在は博物館・宝物館)です。 オデオン広場(正面が将軍堂、右手がテアティーナー教会) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 レジデンツ博物館・宝物館 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 19世紀初頭からミュンヘンでは市街地再開発が行われてオデオン広場が設置されました。将軍堂(フェルトヘルンハレ)は1841〜1844年に建築されています。ヒトラーらが1923年のミュンヘン一揆で蜂起し行進して将軍堂前にさしかかった時に銃声が鳴り警官が死亡し、その後一揆が鎮圧されたため、将軍堂はナチ党の宣伝でシンボル的な意味を持つようになりました。1938年にはスイスの神学生が将軍堂付近でヒトラーを狙撃しようとして失敗しています。戦後にはナチ党の設置した記念物は除去されました(参考)。 テアティナー教会は1667年に完成したもので、バイエルン王マクシミリアン2世、王妃マリー、ヴィッテルスバッハ家の家族らが埋葬されています(参考1・参考2)。なお、ヴィッテルスバッハ家は、バイエルン公(選帝侯)、後のバイエルン王の家系として有名ですが、2人の神聖ローマ皇帝と1人のドイツ王、ギリシャ王等も一族から出しています(参考)。 バスはオデオン広場で左折してルートヴィヒ1世の騎馬像の前を北上しました。ルートヴィヒ通りの先(北)の方には凱旋門(Siegestor)が見えました。これはナポレオンによって実質的にはフランスの従属国として王国に昇格したバイエルン王国が、1814年のバイエルン解放戦争によってナポレオンからの解放されたことを記念して1852年に建てられたものです(参考)。 凱旋門 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 バスは凱旋門には向かわずに右折して東に向かいます。ちょうど旧市街を囲む城壁があった通りです。旧市街を囲む通りには所々に城壁があった当時の門が残されています。さらに右折してカール=シャルナグル=リング(これも旧市街を囲む通り)に入って南下し、右折してマクシミリアン通りを西に向かい、市街中心部に入っていきます。マクシミリアン通りはミュンヘンの目抜き通りです。 マクシミリアン通り 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 マクシミリアン通りの西端は、最初のバイエルン王であるマクシミリアン1世(愛称:マックス・ヨーゼフ)の像のあるマックスヨーゼフ広場です。 マクシミリアン1世は最後のバイエルン選帝侯であり、最初のバイエルン王ということになります。ヴィッテルスバッハ家の傍系の三男として生まれましたが、選帝侯カール・テオドールに子供がなく、マクシミリアン・ヨーゼフが選帝侯位を継承しました。1813年までバイエルンはナポレオンの最も忠実な同盟国で、マクシミリアン・ヨーゼフの長女とナポレオンの養子ウジェーヌ・ド・ポアルネの結婚でその関係は強化されました。第2代国王のルートヴィヒ1世はマクシミリアン1世の長子です。(参考) マックスヨーゼフ広場のマクシミリアン1世像 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 広場にはオペラハウス(バイエルン州立歌劇場)が面しています。州とミュンヘンの補助金により運営されていますが、バイエルン選帝侯国の宮廷劇場が起源であることから、日本では「バイエルン国立歌劇場」の名前で知られています。(参考) ◆バイエルン州立歌劇場公式サイト オペラハウスの正面 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 バスはマックスヨーゼフ広場で折り返して、マクシミリアン通りを東に向かいます。市街地の外周道路(旧市街を囲む通り)を抜けると、両側に緑地帯が広く取られている通りとなります。その中程にバイエルン王マクシミリアン2世の像がありました。下の写真奥に遠く(望遠で近くに見えますが)見えるのは、マクシミリアノイム(バイエルン州議会議事堂)です。州議会の建物はマクシミリアノイム財団が所有しています(参考)。 マクシミリアン2世像とマクシミリアノイム(バイエルン州議会議事堂) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 バイエルン第3代国王マクシミリアン2世は、第2代国王のルートヴィヒ1世の長男です。ギリシャ王オソン1世もルートヴィヒ1世の子でマクシミリアン2世の弟です。(参考) オソン1世については2013年12月にギリシャを訪れた時の旅行記で、次のように言及しました。フランス革命による絶対王政から立憲王政、共和制への移行と、神聖ローマ帝国やオスマン帝国などの帝国を解体して新しく「王国」がでっち上げられることが同時に行われていたことの象徴と言えます。 「古代ギリシャのイメージに反して、国家としてのギリシャは比較的新しく、1829年にアドリアノープル条約にて独立が承認され、1830年にバイエルン王国の王子オソン1世を国王に迎えて、ギリシャ王国として独立してからまだ180年あまりの若い国です。一定の地理的領域を持つ国家として統一されたのはこの時が初めてと言われています。」マクシミリアン2世は1832年、12世紀に建設され廃墟となっていた古城シュヴァンシュタイン城を購入し、1853年に改築してホーエンシュヴァンガウ城としました。この城で幼年時代を過ごし、後に隣にノイシュヴァンシュタイン城を建築したのがルートヴィヒ2世です(参考)。 ホーエンシュヴァンガウ城は、この翌日、バスでノイシュヴァンシュタイン城を見学した際に外から眺めました。ちなみにノイ(新)シュヴァン(白鳥)シュタイン(石)という意味です。(旧)シュヴァンシュタイン城(現在のホーエンシュヴァンガウ城)に対して「新」シュヴァンシュタインというわけです。 つづく |