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ミュンヘン・オーストリア短訪

ホーエンザルツブルク城

鷹取敦

掲載月日:2017年10月5日
 独立系メディア E−wave
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内容目次
  1 歴史的背景
ミュンヘン 8/12 2 ミュンヘン(1) | 3 ミュンヘン(2)
8/13 4 ノイシュヴァンシュタイン城 | 5 フュッセン| 6 ヴィース教会
ザルツブルク 8/14 7 歴史・ミラベル宮殿 | 8 教会・モーツァルト | 9 レジデンツ・大聖堂
10 ホーエンザルツブルク城 | 11 サウンド・オブ・ミュージック
ザルツカンマーグート 8/15, 16 12 ザルツカンマーグート | 13 ハルシュタット(1) | 14 ハルシュタット(2)
ウィーン  8/16 15 リングシュトラーセ
8/17 16 旧市街・シュテファン大聖堂 | 17 ホーフブルク王宮・美術史博物館
18 シェーンブルン宮殿

■ホーエンザルツブルク城

 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間の聖職叙任権闘争の際、教皇側についた大司教ゲープハルト1世は、皇帝に対抗するために1077年、ホーエンザルツブルクの築城を始めました。

 その後、大司教レオンハルト・フォン・コイチャッハ(1495〜1519年)等により増改築が続けられ17世紀半ばに現在のような姿となりました。皇帝との争いが終わった後も、領主である大司教と街の住民との間には常に争いがあったため、大司教レオンハルトは安全な城塞を住まいとし、城塞を居心地のいいものとするため、増改築を行わせました。
(参考:ザルツブルク、Colorama社、1999年初版発行、2014年第13版発行)

・聖職叙任権闘争

 当時、神聖ローマ皇帝が大司教、司教、修道院長などの高位聖職者の任免権を、イギリス、フランスなどの国王や領主が域内の下位の聖職者の任免権を持っていました。このような世俗の権力が聖職者の任免権を通じて支配し、聖職が売買されることが腐敗の1つであると、改革派の教皇レオ9世や、後のグレゴリウス7世により改革が行われ、世俗の権力と対立しました。

 グレゴリウス7世が皇帝等世俗権力の聖職叙任権を否定し、これを拒否したハインリヒ4世を破門したことから叙任権闘争が開始されました。破門されることはキリスト教世界からの追放を意味することから、皇帝ハインリヒ4世はドイツから厳冬のアルプスを越えて教皇の滞在するカノッサ城で教皇への面会を求め、3日間雪の中に素足で立ち尽くしました。これが「カノッサの屈辱」と言われる事件です。

 破門を解かれたハインリヒ4世は、ドイツに戻って反撃のチャンスを探り、1080年にふたたびグレゴリウスの廃位を決議し、別にクレメンス3世を教皇として擁立、グレゴリウスを軍隊により追放しました。それ以降、2人の教皇が並立する分裂状態となります。

 その後、グレゴリウスの後継者ウルバヌスが十字軍運動を提唱し、主導権を握ります。ハインリヒ4世の息子ハインリヒ5世は教皇側と妥協し、教皇の聖職叙任権を認めることで叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約の成立で終わりを告げました。
(以上、参考

 下は城に登るケーブルカー乗り場の入口です。なお、以前に来たときには冬季でケーブルカーが運行していなかったため、積雪が凍って滑る坂を下の旧市街から徒歩で登りました。


ホーエンザルツブルク城に登るケーブルカー乗り場の入口
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ケーブルカーから降りて、城塞の中をさらに登ります。下の写真は、途中から旧市街を見下ろしたのもので中央やや右のドームがザルツブルク大聖堂です。川の手前が旧市街、川の向こうが新市街となっています。


ホーエンザルツブルク城から見下ろす旧市街
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


ホーエンザルツブルク城の城壁 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


ホーエンザルツブルク城の城内 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 城内は音声ガイドを借りて見学できます。下の写真の右の方にある赤い「i」マークが見学路入口、「A」のマークが音声ガイド付き見学路の入口で、建物の中を一周します。「B」は博物館が、「C」に黄金の間があります。


ホーエンザルツブルク城の案内図 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 塩の貯蔵庫(ホーエンザルツブルク城の時代による増築の様子が展示されています)、レックトゥルムの拷問部屋(政治犯の監獄。拷問に使われたことはなく、拷問器具が飾られる?ようになってから拷問部屋と呼ばれるようになったそうです)等を順番に見学しました。

 下の写真は上の案内図の「i」マークの右下の黄色い塔(西端の塔)の上から「B」のある建物の方向を見た写真です。


ホーエンザルツブルク城 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 上の写真から右の方向を向いたのが下の写真です。案内図の「1」の両側にある塔が写真に写っています。


ホーエンザルツブルク城 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真は要塞通路です。


要塞通路
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下はオルゴールのような仕掛けで自動演奏されるパイプオルガンで、時刻を知らせるために使われていました。1520年に作られたもので「ザルツブルクの雄牛」と呼ばれています。見学コースの最後の部分です。「ザルツブルクの雄牛」は兵糧攻めに合った大司教側が、食料がまだ潤沢に残っているかのうように見せかけたエピソードにちなんでいるようです。(参考1参考2


パイプオルガン
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 建物の中を1周見学して建物から出ました。下の写真は上の案内図の「9」のあたりのゲオルグ教会の壁面です。写真の建物の上に教会の塔があります。


ゲオルグ教会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の木は上の案内図の「8」あたり、ゲオルグ教会の前あたりにあります。


ホーエンザルツブルク城内 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 次に城塞博物館に入ります。大司教レオンハルトの治世の時代、芸術は手工芸の粋を集めたものとなりました。下の写真は領主の間です。


城塞博物館・領主の間 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真は博物館に展示された軍服等です。


城塞博物館・軍服等 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(ハプスブルク家)の肖像画やハプスブルク家の双頭の鷲の紋章が展示されていましたが、ザルツブルクやホーエンザルツブルク城がハプスブルク家の支配下に入ったのは、ナポレオン戦争によってフランス軍に占領された後の時代です。

 ザルツブルクは今でこそオーストリアの都市として世界的にも有名ですが、ナポレオン戦争以前、長い年月の間、オーストリア(ハプスブルク家の領土が後のオーストリア帝国、その中のドイツ語圏が後のオーストリア共和国)ではなく、神聖ローマ帝国の一部にある大司教領でした。


城塞博物館・軍服等 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 博物館内には中世〜近代と思われる家具、武器、模型等が展示されていました。

 城塞博物館の他にマリオネット博物館もありましたが、中には入りませんでした。ザルツブルクはマリオネット劇が有名なのだそうです(参考)。

 博物館の外にも見学できる、当時の状況を保全、再現した場所、遺構等があります。


ホーエンザルツブルク城内 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


ホーエンザルツブルク城内 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 帰りはケーブルカーを使わず、徒歩で城外に出ました。


ホーエンザルツブルク城から城外へ下る道
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 徒歩で降りる道からケーブルカーの軌道が見えました。


ホーエンザルツブルク城とケーブルカーの軌道
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 先に紹介しましたがこの後、大聖堂の内部を見学しました。大聖堂の後、レジデンツ広場に戻り、レジデンツに立ち寄り(見学時間が終わっていたので内部は見られませんでした)、旧市街で一休みしてから、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の撮影地のうちモーツァルト小橋、修道院等を巡りました。

つづく