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ミュンヘン・オーストリア短訪

ザルツブルクの教会・モーツァルト

鷹取敦

掲載月日:2017年10月5日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


内容目次
  1 歴史的背景
ミュンヘン 8/12 2 ミュンヘン(1) | 3 ミュンヘン(2)
8/13 4 ノイシュヴァンシュタイン城 | 5 フュッセン| 6 ヴィース教会
ザルツブルク 8/14 7 歴史・ミラベル宮殿 | 8 教会・モーツァルト | 9 レジデンツ・大聖堂
10 ホーエンザルツブルク城 | 11 サウンド・オブ・ミュージック
ザルツカンマーグート 8/15, 16 12 ザルツカンマーグート | 13 ハルシュタット(1) | 14 ハルシュタット(2)
ウィーン  8/16 15 リングシュトラーセ
8/17 16 旧市街・シュテファン大聖堂 | 17 ホーフブルク王宮・美術史博物館
18 シェーンブルン宮殿

■聖アンドレ教会

 ミラベル宮殿の向かいには、1898年に建造されたクロアチア・カトリック教会の聖アンドレ教会があります。

 下のグーグルマップの左がミラベル宮殿とその庭園、右上の2つ塔のある建物が聖アンドレ教会です。


グーグルマップで見るミラベル宮殿と聖アンドレ教会

 現在のクロアチアはオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。多民族国家だったオーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国には多くのクロアチア人が住んでいました。帝国解体後、セルビア王国が主導して汎スラブ主義のもと、ユーゴスラビア王国が建国されました。なお、ユーゴスラビア王国ではセルビア正教会が事実上の国教として振る舞っていました。現在のクロアチアでは大部分がカトリックです。


聖アンドレ教会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 現在は外観も内部も質素なつくりですが、教会内に展示されている古い写真をみると、外観も祭壇も現在よりも立派で、尖塔も現在よりも高かったようです。戦争で破壊された跡に現在のように再建されたものと思われます。


聖アンドレ教会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真のところで教会の維持のための寄付を募っていました。


聖アンドレ教会に展示されているかつての教会の写真
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


聖アンドレ教会に展示されているかつての祭壇(1898年)の写真
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

■三位一体教会

 ミラベル宮殿前の道を旧市街に向かって南に進むと左手に三位一体教会があります。三位一体教会は1694〜1703年に建造されたバロック様式の教会です。ウィーンのカールス教会と同じ建築家フィッシャー・フォン・エアラッハによるもので似たデザインです。(参考:ザルツブルク、Colorama社、1999年初版発行、2014年第13版発行)


三位一体教会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 上の写真では塔に隠れて見えていないのですが、2つの塔の間にドームがあります。教会の前に掲示されていた音楽会の案内の写真ではドームが見えます。


三位一体教会の音楽会の案内 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ちなみに、日本では「三位一体」という言葉は「三位一体(さんみいったい)の改革」などのように宗教とは無関係な文脈で用いられますが、本来「三位一体」(さんいいったい)とは、キリスト教において「父である神」と「子であるキリスト」と「聖霊」は一体である(唯一の神が「父」「子」「聖霊」という3つの位格をもつ)という教えを意味します。西方教会(カトリック、プロテスタント)、東方教会(正教会等)の大半の教派が共有しています。聖書には登場しない言葉ですが、聖書の内容から導かれた正統的な概念とされています。ローマ時代のエジプトのアレクサンドリアの司教アタナシウスによって主張され、ローマ時代の数回の公会議を通じて正統の地位を獲得し、三位一体の教えを受け入れないアリウス派等は異端として排除されてきました。(参考

 ザルツブルクの三位一体教会は、第二次世界大戦の際には軍の病院として用いられるなどの歴史を歩み、2012年には修道士の家兼ゲストハウスとしてリノベーションされており、旅行者が宿泊することができます(宿泊された方の旅行記)。

 聖堂内の天井にはヨハン・ミヒャエル・ロトマイヤーが手がけたという美しいフレスコ画があります(参考)。

■モーツァルトの住居

 三位一体教会の前を右折するとマカート広場に出ます。広場の右側に面した建物の中にモーツァルトが青年時代に住んだ「モーツァルトの住居」があります。ただし当時の建物は第二次世界大戦で破壊されたため、現在の建物は1996年から当時の姿で修復、再建されたものです。(第一生命によるモーツァルトの住家 復元修復事業のサイト


モーツァルトの住居の入口 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 モーツァルトが17歳だった1773年、モーツァルトの一家は手狭になったゲトライデガッセの4階の家からこの家の2階に引っ越してきて、1780年まで住んでいました。モーツァルトの父は後にこの家で亡くなっています。

 内部はモーツァルトに関する博物館となっており、音声ガイドを借りて見学することが出来ます。当時の楽器や楽譜、一家の肖像画なども展示されています(参考)。内部は撮影禁止となっています。

■ザッハトルテとホテル・ザッハー

 モーツァルトの住居のすぐ近く(ザルツァッハ川の近く)には、フランツ・ザッハーによって生み出されたチョコレートケーキ・ザッハトルテで有名なホテル・ザッハー・ザルツブルクがあります。

 ウィーンのホテル・ザッハーは1876年にフランツ・ザッハの息子であるエドゥアルト・ザッハーによって家具付きの貸家として建てられ、彼の死後、未亡人のアンナ・ザッハーによって世界最高の格式あるホテルの1つとなりました。エドゥアルトの父フランツによって作られたザッハトルテは、このウィーンのホテル・ザッハーで売り出されました。

 一方、ホテル・ザッハー・ザルツブルクは、ウィーンのホテル・ザッハーに先立つこと10年、1866年に建てられたオーストリア・ホーフ(オーストリアの宮廷)の名で知られたホテルでした。1988年にホテル・ザッハ−・ウィーンのオーナーが経営権を買い取り、現在の名称となっています。(参考1参考2

 なお、ホテル・ザッハーが経営難に陥った際、ウィーン王室御用達のケーキ店デメルが援助を申し入れました。ホテルザッハとデメルは姻戚関係となり、援助の代わりにザッハトルテのレシピがデメルに伝わったようです。その後、ホテルザッハとデメルの間で商標を巡って訴訟がおき、7年の間争ったそうです(参考)。日本でザッハトルテがデメルのケーキとして知られている背景にはこのような経緯があるようです。


ホテル・ザッハー・ザルツブルクのザッハトルテ売り場の入口
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ザルツァッハ川の橋の上から振り返るとホテル・ザッハー・ザルツブルクがよく見えます。ザッハトルテ売り場の入口は写真の向かって左側側面(建物の北側側面)にあります。


ザルツァッハ川を渡るマカートシュテク橋から見たホテル・ザッハー・ザルツブルク
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ザルツァッハ川を渡るマカートシュテク橋は歩行者専用で、欄干にはカラフルな南京錠がつけられています。


マカートシュテク橋 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 マカートシュテク橋から旧市街とホーエンザルツブルク城が見えます。写真やや右の黒っぽいドームはコレーギエン教会、その左側に見える尖塔はフランツィスカーナー教会、ホーエンザルツブルク城の左端下あたりに見える緑青色のドーム(左側)と塔(右側)がザルツブルク大聖堂です。


マカートシュテク橋から見たホテル・ザッハー・ザルツブルク
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下のグーグルマップの右上の緑の屋根の2つ塔のうしろに黒い屋根のドームのある建物が三位一体教会、中央の広場に面している手前の建物にモーツァルトの住居、左下がホテルザッハーです。


グーグルマップで見る三位一体教会、モーツァルトの住居、ホテルザッハー

■モーツァルトの生家

 マカートシュテク橋でザルツァッハ川を渡り、建物の下をくぐり、旧市街に入っていきます。下の写真の奥の左側の黄色い建物にモーツァルトの生家があります。


旧市街へ(ハーゲナウアープラッツ) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 モーツァルトの生家があるのは下の写真の黄色い建物で、ゲトライデ通りにあります。チケットはモーツァルトの住居と生家のセットものを購入しました。こちらも内部は博物館になっています。


モーツァルトの生家 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


モーツァルトの生家の入口 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 モーツァルト一家が使っていた家具、衣装、楽器、道具、譜面、肖像画、舞台の模型などが展示されています。モーツァルトが住んでいた時代の雰囲気を残した展示です。

 モーツァルトは、1756年1月27日午後8時にザルツブルクのゲトライデ通りで生まれました。幼いころからその才能を発揮したモーツァルトは1773年にマカート広場の「モーツァルトの住居」に引っ越すまでは、ほとんどを巡業のための旅に費やしました。ウィーン、パリ、ロンドンなどで擁護者の君主から大歓迎を受け、ローマ教皇からは「黄金拍車十字章」を授与されました。(参考:ザルツブルク、Colorama社、1999年初版発行、2014年第13版発行)

・モーツァルトはオーストリア人かドイツ人か

 モーツァルトが生まれ育ったザルツブルクは、現在はオーストリアの都市ですが、後のオーストリア(オーストリア帝国→オーストリア=ハンガリー帝国→オーストリア共和国)の前身であるオーストリア大公(ハプスブルク家)の領地ではなく、神聖ローマ帝国(ドイツ国民の神聖ローマ帝国→ローマ=ドイツ帝国→ドイツ帝国)内の大司教領でした。

 ちなみにモーツァルトが生きていた時代の神聖ローマ皇帝は、オーストリア継承戦争を経てハプスブルク家が皇帝位に復帰したマリア・テレジアの夫フランツ1世(実権はマリア・テレジアが持っていました)とその子ヨーゼフ2世です。

 当時、ザルツブルクがオーストリア大公領ではなかったこと、モーツァルトが自身を「ドイツ人」と表記していたこと等から、ドイツのテレビ局が「史上最も偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートし、オーストリア大使館が抗議し、議論となりました(参考)。

 もっとも当時はオーストリア人という概念はなく、ドイツ語を話す民族は現在のオーストリアの人も含めてドイツ人だったわけですから、現代の尺度でドイツ人(ドイツ連邦の国民)かオーストリア人(オーストリア共和国の国民)か議論するのは意味がありません。

 歴史的背景で紹介したように、オーストリアという国が出来たのは、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されてドイツ=オーストリア共和国が成立した1918年で、オーストリア人としてのアイデンティティが確立したのは、1938年のヒトラーによるドイツへの合邦を経て、再度独立した第二次世界大戦後と言われています。


モーツァルトの生家の展示物より当時のザルツブルク
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 モーツァルトの生家を出てゲトライデ通りを東に向かいました。

つづく