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足尾銅山現地視察
(14)「舟石峠」から「小滝地区」


青山貞一 池田こみち
掲載月日:2014年5月9日
 独立系メディア E-wave Tokyo

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④舟石峠から小滝地区


出典:一般社団法人日光観光協会、足尾散策ガイドマップ をもとに青山が作製

 さらに進むと、標高1000mちょっとの舟石峠に出た。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 この峠は、足尾銅山の母山である「備前楯山」の1272mより少し低いが、おそらく足尾銅山の鉱脈が下を走っているはずの峠である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 舟石峠に、以下の看板があった。おそらくこの林道を下れば足尾銅山側に降りられる。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 確認のため舟石峠で前から歩いて来た方に、このまま行くとどこに出るかを聞く。 するとこのまま進むと足尾温泉、国民宿舎「かじか荘」に行くと教えてくれた。

 下の地図にあるように、舟石峠を降りると足尾温泉に到着した。


「本山地区」から「小滝地区」までの道路図
出典:グーグルマップ

 その後、県道293号線を小滝坑口そして帰路となる国道122号線がある方向に向かって下っていった。 途中、「狸掘り跡」や「鷹の巣坑」など、いずれも足尾銅山に関連する史跡があった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

狸掘り跡

 江戸時代の鉱脈の掘り方は、自分だけが入れる狸穴に似た狸掘りであった。足尾銅山でも対岸の沢沿いに多く見られる。

                                           日光市
参考

足尾銅山観光のジオラマより
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400


狸掘りレプリカ  足尾銅山観光
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 県道293号線をさらに降りると「中国人殉難烈士慰霊碑塔」という日光市の掲示板が目に入った。何でも太平洋戦争の末期、中国から強制連行されてきた257名が足尾銅山の労働に従事し109名が殉難されたとある。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下は慰霊塔までの階段である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下は県道292号線沿いにあった「中国人殉難烈士慰霊塔」である。

 私達は長野県長野市松代の松代大本営跡でも同じような中国人や朝鮮人の慰霊碑を見たことがあるが、戦時中日本は各地の炭坑や鉱山などで朝鮮半島や大陸からひとびとを連行し強制的に働かせていたことを足尾銅山の地でも知ることになった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 「中国人殉難烈士慰霊碑塔」を過ぎ少し行くと「坑夫浴場跡」があった。実は数時間前、環境学習センター内のDVDを見ていたらローマの大浴場ではないが坑夫が二重楕円形のお風呂に入っている姿を見ていたので、すぐにそれと分かった。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 浴場はほぼ原型をとどめていた。なかなかユニークな形をした浴場である。


足尾銅山労働者用の浴場跡にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400

 浴場近くに、「小滝坑口」の跡があった。下図には通洞、本山とともに、「小滝坑口」が示されている。「小滝坑口」も足尾銅山の主要な坑道を支える坑口であった。


「小滝坑口」も足尾銅山の主要な坑道を支える坑口であった
出典:グーグルマップから青山が作成

 下は現在の「小滝坑口」。坑口は厳重に閉じられている。

    
足尾銅山の小滝坑坑口(現在)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 以下は「小滝坑口跡」についての日光市の史籍解説板である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

◆日光市指定史跡

 明治10年(1877年) 足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は小滝の旧坑(250m先までの掘止)を利用し、明治18年(1885年)7月にこの小滝坑を開坑した。

 明治26年11月には本山坑(間かく3005m)と貫通し、次に立坑で通洞坑(間かく3276m)とも連絡するようになり備前楯山に向かって3坑から採鉱がすすめられた。

 この開坑の功労者は笈川清七と本部末次郎であり、当時下駄づくり小屋が一軒しかなかったこの土地に、小滝坑を中心に銅山の施設と集落が出現し、大正年間には人口一万人余となった。昭和29年(1954年)銅山の経営合理化により小滝坑が廃止されるとともに銅山の施設が全部撤去されて今日に至っている。当時の名残りを小滝坑と前岸の削岩機練習のノミ跡にとどめている。小滝坑の小坑は、旧坑の一つである。

                                    昭和51年3月15日 日光市

 小滝坑口をさらに下ると、小滝小学校、第三中学校跡の案内板があった。大正7年には何と991人もの児童が通っていたとある。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下の写真の右側に石段がある。おそらくこの上側が校庭となっていたものと思われる。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8
 
 小滝小学校、第三中学校跡の案内板からさらに県道293号線を下ると「足尾朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑」という看板があった。先に「中国人殉難烈士慰霊塔」の案内板を見たとき、おそらく朝鮮人強制連行についても慰霊碑があるだろうと推察していたが、やはりあったことになる。非常に残念であり遺憾なことである。

 これについては、以下に詳細な論考があるのでご覧いただきたい。実に多くのひとびとが強制的に足尾銅山に送り込まれ劣悪の労働環境の下で働らかされ、亡くなっていったことが記されている。

 ◆足尾鉱山への朝鮮人強制連行
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/asio.html

 前略

なお、中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」には足尾鉱山へと19426月までに698人が連行されたとある。厚生省名簿でのこの時期までの連行者数は654人であり、44人少ない。「移入朝鮮人労務者状況調」では1939年に50人、1940年に300人、1941年に500人に割当が承認されたとある。初期の連行者の名簿の一部が欠落しているとみられる。

 19434月には北海道の鴻之舞鉱山から370人、5月には千歳鉱山から155人の転送があった。520人を超える朝鮮人が北海道から送られてきた。

鴻之舞からの転送者のうち、忠南の扶余・論山・舒川出身者は19419月に、慶南の密陽出身者は19423月に,京畿の坡州出身者は同年4月に、慶北の星州出身者は同年6月に連行された人々である(住友鴻之舞鉱山強制連行者名簿『戦時外国人強制連行関係史料集Ⅲ朝鮮人2下』13331415頁)。

以下略


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 かくにして2014年5月7日、群馬県北軽井沢を出発し桐生市を経由して150km以上を走破し日光市足尾町に到着し、足尾銅山を現地視察したのだが、夕方、一通りの現地視察を無事終了することができた。

 下は県道293号線が桐生市に向かう国道122号線にT字路で合流する地点の写真である。鉄橋はわたらせ渓谷鐵道の鉄橋である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 私達はこの後122号線で約1時間かけ桐生市に到着し、桐生市で一泊し、翌日は渡良瀬遊水池、旧谷中村を現地視察することになる。

 下は5月7日、私達が現地施設した地域の立体地図である。


通洞地区、本山地区、小滝地区の立体地図
出典:グーグルアースをもとに作製

つづく