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足尾銅山 現地視察
(4)坑道と3つの坑口

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2014年5月9日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁


 足尾銅山の発見は、1550年(天文19年)と伝えられているが、実際の掘削は1610年(慶長15年)、2人の百姓が今でいう「備前楯山」の一角で鉱床を発見し、幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになったのがはじまりとされている。

 幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していたが、その後採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけ閉山状態となっていた。

 明治4年(1871年)には民営化されたものの銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んだ。その後、1877年(明治10年)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を「備前楯山」内に発見した。

 その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見された。古川市兵衛の死後の明治38年3月に会社としての古河鉱業の経営とった。当時の明治政府の富国強兵政策を背景に、銅山経営は日立銅山、別子銅山とともに急速な発展を遂げた。

 20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展は、足尾山地の樹木が、坑木・燃料のために伐採されされただけでなく、製錬する工場からの排煙により、著しい大気汚染・環境破壊を引き起こすこととなった。、

 荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流域の農地や住宅地を汚染し、水質・土壌汚染をはじめ、広範囲な環境汚染を引き起こした。そして1973年(昭和48年)2月28日をもって採鉱を停止し、銅山発見以来360余年の銅山を閉じた。

参照出典:Wikipedia

 ところで いわゆる足尾銅山は足尾駅近くにある「備前楯山」(1272m)と呼ばれる「山」を指している。足尾地域にある他の山からは銅は産出しなかった。その意味では足尾銅山そのものは、地理的にきわめて限定されたものであったことが分かる。


主要坑道と3つの坑口    グーグルマップの地形図をもとに青山が作製

 上記の3つの坑口を足尾銅山の観光案内図に重ねて見ると以下のようになる。なお通洞口は「足尾銅山観光」の中にある。


出典:一般社団法人日光観光協会、足尾散策ガイドマップ をもとに青山が作製

 足尾銅山には、上図にあるように本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があった。図は3つの坑口をグーグルマップの地形図に示したものである。本山坑から小滝坑はほぼ一直線に繋がっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続する形になっている。このため、3つの坑口を結ぶ坑道は、T字型になっている。

 図では本山坑口と小滝坑口、そして通洞坑口から備前楯山の地下を通り、本山坑口ちと小滝坑口を結ぶ坑道にぶつかる位置を示している。概略距離は、本山坑口ちと小滝坑口が約3km、通洞坑口から備前楯山近くのT型地点までは4km強である。
 
 これらの主要坑道を含め、足尾銅山の総坑道延長距離は1234kmと、足尾から福岡までの距離に相当し、銅山としては日本一である。銅の生産量も最盛時には日本全体の生産量の40%を占めるまでになっていた。それら1234kmに及ぶ坑道は、「備前楯山」の内部、地下の至る所にアリの巣のように、多重、多層に存在していたことになる。

 下は坑道と坑口をあくまでも概念をイメージ化したものだが、立坑と横坑、それぞれから坑道が伸びる形態・構造であったことが推測される。別子銅山の坑道断面イメージや図は多数検索されるものの、なぜか足尾銅山については皆無に近い。


坑道と坑口のイメージ
注意:これはあくまで概念イメージであり実際の坑道、坑口とは
    関係ありません!

 ちなみに以下の図は愛媛県新居浜市にあった別子銅山における坑道イメージ図である。

◆愛媛県新居浜市にあった別子銅山における坑道イメージ図


別子銅山における坑道イメージ図
出典:第三通洞 http://www.besshi.net/hp/tonal/01/01.htm


別子銅山における坑道イメージ図
出典:足尾銅山 マイントピア


別子銅山における坑道イメージ図

 足尾銅山には、本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があったが、そのうち小滝坑は1954年閉鎖。最後まで使われていたのは本山坑と通洞坑であった。(より正確には、本山坑と有木坑は微妙に場所が違い、これ以外に近くに本口坑があった。

 通常はこの3つの坑口をまとめて「本山坑」と呼ばれる。有木坑は当初梨木坑という名であったが、縁起担ぎで有木に変更された。また、簀子橋という名の坑口もあった。規模は小さく、通洞坑と同一視されることが多いが、名目上は独立していた。現簀子橋堆積場付近にあった。

 下の立体図は、「通洞」地区、「本山」地区、「小滝」地区を含む足尾銅山一帯の立体地図である。

足尾銅山一帯の立体地図   出典:グーグルアースをもとに作製

つづく