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足尾銅山現地視察
(2)渡良瀬遊水池概要

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2014年5月9日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁


 5月7日の足尾銅山に引き続き、5月8日には栃木県、群馬県、茨城県、埼玉県にまたがる一大遊水池である渡良瀬遊水池を現地視察した。渡良瀬遊水池は、田中正造で有名な旧谷中村を強制的に廃村として足尾銅山から流れ出る各種の有害化学物質を沈殿させ、下流に流出させないようにすることを主目的として設置した遊水池である。

 遊水池建設を巡っては、汚染問題に加えもともと建設予定地にあった旧谷中村の村民が強制的に立ち退きにとなった問題でもあり、日本の公害問題の原点に絶えず登場する田中正造がここでも大活躍するが、最終的に土地収用法により谷中村は廃村となり全世帯が立ち退きとなった。

◆渡良瀬遊水池現地視察

◆被害の拡大

概要
 
渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の3度の大洪水で顕著となった。

 1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。

 対策工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した。

渡良瀬遊水地

 足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池である。2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録された。


渡良瀬遊水池位置図
出典:国土交通省


現在の渡良瀬遊水池
グーグルマップ


渡良瀬遊水池ガイドマップ

 渡良瀬川に思川と巴波川の2つの川が合流する地点の湿地帯全体が堤によって囲われ遊水池となっている。足尾鉱毒事件の発生当時は、鉱毒対策が目的で設けられたのではなく洪水防止が目的とされたが、1903年の政府の第二次鉱毒調査委員会が渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されており、鉱毒対策目的であることは明白であった。

 法令上は、国土交通省が管轄する河川の内部になっている。足尾鉱毒事件から100年近く経った現在では鉱毒は減少し、主に治水と利水のための地域になっている。ただし、減少したのは上流から新たに流れてくる鉱毒の量であって、遊水地の土壌には2010年現在でも銅などの鉱毒物質が多く含まれている。

出典:Wikipedia

<主な訪問先>

(1)足尾銅山から約90km離れた渡良瀬川下流に位置
  する旧谷中村(田中正造が生まれ活躍した場所)

(2) 栃木廃墟となった鉱山神社への参道にて市歴史民俗資料館

(3) 旧谷中村にあった石碑などの移設場所(合同慰霊碑)、

(4) 田中正造5分骨のひとつ田中霊祀地(寺)、

(5) 栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県にまたがる巨大な渡良瀬遊水池

◆田中 正造

概要
 天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の政治家。日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名、兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。

生い立ち
 生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。なお、この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。翌年に出所。

 明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。

 1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚しているが、その結婚の年については諸説ある。

 以下は渡良瀬遊水池問題関連

 1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。

 1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。

 1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。

正造の最期
 土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガンなど。
 
財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。

 雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は1989年(平成元年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となったが、現在でもその跡は残っている。

出典:Wikipedia


田中正造 
出典:栃木県栃木市藤岡歴史民俗資料館


田中正造た出した人命救助請願
出典:栃木県栃木市藤岡歴史民俗資料館


田中正造外書画巻
出典:栃木県栃木市藤岡歴史民俗資料館


渡良瀬遊水池の展望台にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


渡良瀬遊水池内の旧谷中村跡にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400


旧谷中村合同慰霊碑にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


田中正造5分骨のひとつ田中霊祀(寺)にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

つづく