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足尾銅山現地視察
(10)
古河鉱業、足尾製錬所跡

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2014年5月9日
 独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

  
A古河鉱業、足尾製錬所跡


出典:一般社団法人日光観光協会、足尾散策ガイドマップ をもとに青山が作製

 一方、橋を渡らず県道250号をさらに北上すると渡良瀬川の対岸に、足尾鉱山製錬所の大きな煙突(高さ50m、直径5m)が見える。煙突の手前は松木川である。


現在の足尾銅山、古河鉱業 足尾製錬所(跡) 前を流れる川は松木川
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 以下はグーグルマップのストリートビューで見た古河鉱業 足尾製錬所(跡) である。2010年に大部分の工場設備を撤去した跡には写真にあるおおきな煙突など、ごく一部の施設のみが残されている。


出典:グーグルストリートビュー

 下は往事の足尾銅山、古河鉱業 足尾製錬所の工場群の配置イメージである。


古河鉱業足尾製錬所の施設配置図イメージ 方位は上が西 

 下の3枚の写真は、往事の「本山地区」の足尾銅山の工場群である。これらの工場は2010年に大部分が解体されており残っているのは上の写真など一部となっている。


足尾銅山、古河鉱業 足尾製錬所
出典:足尾環境学習センター 


1895年頃の古河鉱業、足尾製錬所 
出典:Wikipedia


足尾銅山 古河鉱業、足尾製錬所 
出典:足尾環境学習センター

 なお、足尾銅山、古河鉱業、足尾製錬所は2010年に大部分(おそらく90%以上)の施設、設備を解体、撤去した。したがって、現在見える施設はおおきな煙突などごく一部だけである。

 2010年より前に、現地に入り写真を撮影してきたひとがいて、写真をホームページ上で公開している。非常に貴重な写真場であるので、ぜひご覧いただきたい!



 ◆
廃墟探索報告写真集

  呼称・足尾銅山・本山製錬所 硫酸工場 沈殿湖場所・栃木県
 
最後のコーナーを過ぎるとそこには地上からは見渡せなかった工場施設が。1956年にこの施設が稼動するまでは、1日に約100トンもの濃硫酸が製錬所付近に撒き散らされていた。足尾銅山と言うと「田中正造」、「鉱毒事件」が良く知られているが、煙害の被害はその以前から発生していた。硫酸工場稼動後も大煙突から排出された鉱煙が「松木村」を直撃し 農作物が育たなくなったその村は消滅した。  

 

 


 
 
  出典:<廃墟探索報告>
 芝公園公太郎ブログ 「廃墟デフレスパイラル」


 2010年に大煙突など、ごく一部の施設、設備を残し、足尾銅山、古河製錬所は、解体、撤去されている。したがって誰も当時の足尾銅山、古河製錬所を誰もみることはできない。

 本来、すべきは2010年前の足尾銅山、古河製錬所のすべてを世界遺産として登録し、誰でもが歴史の負の遺産を見られることであったはずである。

 これではまさにナチス・ドイツがポーランドのアウシュビッツ、マイダネクなどの強制収容所を戦争終結時に破壊し、歴史上から隠ぺい工作したことと同じことを、古河側が行い、それを国や県がそれらを認めたことになりかねない。現地を視察し、つくづくそれを感じた。


◆古河鉱業についての解説

【足尾[町]】より
…わたらせ渓谷鉄道線が通じる。1610年(慶長15)に発見され,江戸幕府直轄の銅山として栄えた足尾鉱山を中心に発達した鉱山町で,鉱山は明治初期に古河鉱業(現,古河機械金属)の経営に移ったが,大正中期の最盛期には人口3万8000人を数え,県内では宇都宮市に次いだ。明治中期には足尾鉱毒事件が起こり,大正期にかけて労働争議が頻発した。…

【足尾鉱山】より
…渡良瀬川の源流地帯,栃木県上都賀郡足尾町にある江戸時代以来の日本の代表的銅山。鉱業権者は古河鉱業(現,古河機械金属)で,古河グループ発祥の地である。鉱床は,足尾山地を構成する秩父古生層の砂岩,粘板岩およびチャートを貫いて噴出した足尾流紋岩に伴うもので,銅を主とする多鉱種の鉱石を産する。…

【古河機械金属[株]】より
…銅など非鉄金属の製錬と建設機械製造を主力とする名門企業。1989年10月に,社名を古河鉱業(株)から古河機械金属(株)に改称。その前身は1875年(明治8)に古河市兵衛が東京・深川に設立した古河本店で,同年渋沢栄一の助力を得て草倉銅山(新潟県),77年足尾銅山(栃木県)の経営を開始した。…

出典:コトバンク

 下の写真は、足尾銅山製錬所と県道250線の位置関係を示したものである。


出典:グーグルマップ ストリートビュー

 さらに県道250号線を北上すると、道路に右側に龍蔵寺がある。 この龍蔵寺には、「本山地区」にあった墓石などが移設されているとともに、鉱毒で倒れていった渡抗夫と呼ばれる全国を渡り歩く抗夫たちの慰霊碑も設置されている。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

◆龍蔵寺(りゅうぞうじ)

 大宝元年(701)に役の行者が創立し、後に慈覚大師が再興したと言われている。以後勝道上人の縁をもって日光山と関係を深めながら輪王寺の末となった。

 明治20年の大火で焼失したが同28年に再建した。境内には明治政府打倒を企てた大忍坊、桜正坊の墓がある他、廃村松木村無縁塔や親分子分の坑夫の墓がある。 
                                       日光市

 下の写真は、、「本山地区」にあった無縁仏や墓石などを移設してつくられプラミッド型の石塔。よく見ると、一つ一つの墓石が見える。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 下の写真は、県道250号線と龍蔵寺との位置関係を示している。


出典:グーグルマップ ストリートビュー


◆旧松木村の無縁石塔

 この地に足尾製錬所が建てられたのは、明治17年(1884)である。製錬所で鉱石を溶かす時に出る煙の中には、有害な亜硫酸ガスが含まれ、付近の草木を枯らす、いわゆる煙害が出始めた。

 松木村の記録によれば、明治21年には桑の木が全滅し、22年には養蚕を廃止した。20町歩(約20ヘクタール)の農作物(大麦、小麦、大豆、小豆、ヒエ、キビ、大根、人参)は、33年までに次々と無収穫となった。

 明治25年まで40戸、人口270名だったものが、33年に戸数30戸、人口174名に減り、34年には1戸を残して全員松木を去り、廃村となった。この煙害問題はその後も50年間解決されなかった。

 しかし、昭和31年(1956)自溶製錬法が採用され、硫酸工場が建設され、煙からの濃硫酸を採るようになって、やっとその根源を断つことに成功し、問題は砂防、造林事業に移った。

 たまたま昭和31年、足尾ダム(三川合流ダム)が完成し、日本一の砂防ダムとなった。その折、松木川に添った旧松木村の無縁仏をこの龍蔵寺境内に合祀した。なお、久蔵川に添った旧久蔵村の無縁石塔、仁田元川に添った仁田元村の無縁墓(昭和56年12月建設)もこの境内にある。

                                        昭和57年3月   龍 蔵 寺


つづく