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青龍西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は中国西安市(長安市)の青龍寺です。

◆西安Xi'an 中国西安市)

◆青龍寺1

 青龍寺は大雁塔の東北東の約3km、地下鉄(紫色)大雁塔駅の東側次の駅下車となります。大慈恩寺は大雁塔の境内にあります。


出典:グーグルマップ

 下の写真にある青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られています。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。


唐の時代、西安空海が学んだ西安の青龍寺
出典:https://bluebird-story.com/qinglongsi/


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


青龍寺の概要

 出典:現地でいただいた青龍寺のパンフレット(日本語版)

 青龍寺は、唐の長安城内の新昌坊に位置し、仏教密宗の有名な寺院でした。

 この寺院が随の開皇二年(AD582)に建立されたものです。初めに霊感寺と称されましたが、唐の武徳四年(AD621)から、一時退廃しましたが、唐の竜朔二年(AD662)観音寺として再建され、唐の景雲二年(AD771)青龍寺と改称されました。

 唐の会昌五年(AD845)全国的に排仏事件が起こり、その際、青龍寺も廃棄され、皇家の内園となりました。その翌年の五月、再び寺院として復活し、護国寺と名付けられました。これはそのまま北宋まで存続していましたが、北宋の元祐元年(AD1086)以降、次第に荒廃し、ついに廃墟となって地上から消えてしまったのです。

 中国に於いては、唐代は仏教の繁栄期でした。唐の有名な高僧恵果が主催していた青龍寺は当時の密宗の重要な道場の一つとして一時盛大を極めました。

 仏法を求める為に内外から多くの僧侶がここを訪れた。とくに日本国の僧侶が中国の仏教から受けた影響が大きかったのです。日本仏教史における“人唐八家”の中の六家(空海、円行、円仁、恵連、円珍、宗睿)が前後にして、青龍寺で仏法を学んだのです。

 その中で、とりわけ密教阿闍梨嗣を受け継いだ空海は業績抜群でした。紀元804年、日本国遣唐使について長安を訪れた空海は初めに西明寺に住み、後、青龍寺の恵果大師に師事して、密教を学びました。

 紀元806年、帰国して日本で真言宗を創立し、日本“東密”の大師と呼ばれています。空海は、仏教の布教と同時に、中国の文学、書道、天文、医学などの知識を日本に伝え、中日両国の文化交流の為に大きな貢献をしました。

 中日国交回復以来、両国の友好交流はさらに発展しつつあります。中日両国の文化交流に優れた貢献をした空海大師と、その師の恵果大師を記念する為に中日両国共同で青龍寺遺跡恵果空海記念堂、空海記念碑、青龍寺庭園を建立しました。

 これをもって両大師の業績を表彰し、両国人民の先駆者の学び合い、共に進歩するという精神を継承し、世々代々友好していくことを激励するものです。


出典;青龍寺でいただいたパンフレット    

歴史   

 青龍寺の創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれました。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となりましたが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められました。

 青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことです。

 唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学びました。

 会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀されました。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められています。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまいました。そのため、以後三たび姿を消すこととなりました。

◆空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))

 空海は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖です。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭 (へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらしました。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。


絹本著色弘法大師像

 以下は唐時代の中国の空海です。

 前略

 長安(西安)で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐三藏法師。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられています。

 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになります。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けます。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになります。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表しています。

 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われました。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられました。伝法の印信です。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点です。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上しています。

 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草しました。

 そして、3月に長安(西安)を出発し、4月には越州に到り4か月滞在しました。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て、その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途につきました。

 途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになりました。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたといいます。

 後略

出典:Wikipedia

青龍寺大事記(年表)

西暦

528年    青龍寺創建、当時、霊感寺と称す
621年    廃寺
711年    観音寺を青龍寺に改名
805年 5月 空海、青龍寺に至り、恵果に師事。
   12月  恵果、青龍寺で円寂、空海、恵果の碑文を撰し、これを書く
806年 8月 空海、唐を離れ帰国。
845年    寺は再度廃され、皇室の内苑に接収。
846年    寺は再建、護国寺と改名。
855年 7月 青龍寺の本名に復す。
1086年   寺は漸次廃棄毀し、湮滅するに至る
1956年   陝西省人民委員会、青龍寺を省級の重要文化財に指定。
1963年   中国科学院考古研究所により、青龍寺遺跡を実地調査。
1981年 7月 8日  空海記念碑の工事開始
1982年 5月19日 中国西安市と日本の四国四県が青龍寺跡で空海記念碑落成式典を挙行
   11月 西安市青龍寺遺跡管理所発足
1983年 3月11日 恵果空海記念堂の工事開始
1984年 9月 8日 中国西安市と日本の真言宗が青龍寺跡で恵果空海記念堂落成式挙行
1985年 4月 日本国香川県、徳島県、愛媛県、高知県の四県の中日友好協会四国四県
       協議会から青龍寺へ桜の苗1000本を贈呈。
1992年 5月19日 中国西安市と日本国四国四県が空海記念碑に於いて十周年祝賀式典を
       挙行。付属庭園の工事開始。
1993年11月11日 青龍寺跡で付属庭園落成式典を挙行。
1997年12月 6日 恵果、空海記念堂を仏教会に渡す。主持は釈寛旭。

復興

 1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめました。

 青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられました。


恵果・空海記念堂 (2004年12月)
Source:Wikimedia Commons


空海記念碑 (2004年12月)
Source:Wikimedia Commons


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


青龍寺2空海つづく