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妙本寺の二天門 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 はじめに 安国論寺1 安国論寺2 安国論寺 南面窟 妙法寺1 妙法寺2 妙本寺1 妙本寺2 妙本寺3 比企一族供養塔 蛇苦止堂 本覚寺 えびす堂 日蓮辻説法跡 光則寺 日朗土牢 雨乞伝説・霊光寺 ◆二天門(にてんもん) 以下の出典は妙法寺公式Web 妙本寺の杉木立の参道を抜け、石段を登り切ると、目の前に現れる堂々とした弁柄塗りの門が「二天門」である。門の左脇には大きな楓があり、新緑、紅葉の季節にそれぞれ見事な色どりを添える。 また、門は建立時の棟札によれば、天保11年(1840年)、第47世 日教聖人の代に司務職本行院第54世 日恭聖人のもと建立されたとある。門には様々な彫刻が施されているが、中央の龍の彫刻は見事で、平成の大改修で極彩色の色を取り戻し、息を吹き返した。なんでも、2?3歩後ろで手を拍つと龍が鳴き声をあげるとかあげないとか。 また、一般的な寺院に見られる仁王門とは異なり、仏教の守護を誓われた帝釈天に仕える四天王(持国(東)・広目(西)・増長(南)・多聞(毘沙門)(北))のうち、持国天と多聞天を安置してあることから二天門という。持国天は、祖師堂に向かって右側に、多聞天は左側に足下に邪鬼を踏みつけ仏法を守護する構えを見せて祀られている。 以下は二天門の手前にある妙本寺の鐘楼である。 鐘楼 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 ◆鐘楼堂(しょうろうどう) 梵鐘をつるし、寺の重要な行事の開始を近隣に知らせたり、また、時を告げる鐘を突くお堂、通称鐘突堂などとも言う。当山の鐘楼堂は、第75世 一信院日雅聖人の代に再建された。大正12年9月2日の関東大震災により、祖師堂、二天門を除くほとんどの建物が倒壊し、その後、檀信徒の護持丹精により順次復興し、昭和6年本堂落慶、翌7年に書院落慶。 そして昭和九年にこの鐘楼堂が落慶を迎えた。妙本寺には古来より鐘楼堂があり、そこには江戸幕府第五代将軍徳川綱吉公寄進の梵鐘がつるされ妙音を響かせていたという。 妙本寺は御開山日蓮聖人以来、代々池上本門寺と妙本寺を一人の住職が兼務するという両山一首の制をしいていたが、第22世 妙悟院日玄聖人の代(1673~1704年)に、綱吉公が池上本門寺五重塔修理の浄財を寄進され、その残余金と檀信徒の寄進により梵鐘が造立されたという。残念ながら、その梵鐘は第二次世界大戦の際に供出されたが、昭和35年、第76世 文妙院日威(日如)聖人代に復興し、日々朝夕に妙音を響かせている。 二天門 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 鎌倉妙本寺 2022-1-21 ◆二天門 総門から杉木立の参道を上ると二天門がある。仏教の守護神である四天王のうち、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置していることから「二天門」と呼ばれている向かって右側が持国天、左側が多聞天。四天王とは、須弥山に住むという「帝釈天」に仕える四人の守護神のことをいう。 二天門(にてんもん)の解説 妙本寺の杉木立の参道を抜け、石段を登り切ると、目の前に現れる堂々とした弁柄塗りの門が「二天門」である。門の左脇には大きな楓があり、新緑、紅葉の季節にそれぞれ見事な色どりを添える。また、門は建立時の棟札によれば、天保11年(1840年)、第47世 日教聖人の代に司務職本行院第54世 日恭聖人のもと建立されたとある。 門には様々な彫刻が施されているが、中央の龍の彫刻は見事で、平成の大改修で極彩色の色を取り戻し、息を吹き返した。なんでも、2?3歩後ろで手を拍つと龍が鳴き声をあげるとかあげないとか。また、一般的な寺院に見られる仁王門とは異なり、仏教の守護を誓われた帝釈天に仕える四天王(持国(東)・広目(西)・増長(南)・多聞(毘沙門)(北))のうち、持国天と多聞天を安置してあることから二天門という。持国天は、祖師堂に向かって右側に、多聞天は左側に足下に邪鬼を踏みつけ仏法を守護する構えを見せて祀られている。 出典:妙本寺公式Web 持国天 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 多聞天 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 二天門に施されている、龍の彫り物のアップ Source:Wiki,edoa Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 二天門の左に日蓮聖人立像がある。 日蓮上人像 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 ◆日蓮聖人銅像(にちれんしょうどうぞう) 日蓮聖人は、貞応元年(1222年)、安房小湊(千葉県小湊)に生まれ、12歳で清澄寺に入り、16歳で出家、仏教諸宗が様々広まっている中で、天変地異や飢餓などで人々が苦しんでいる有様に心を痛め、仏の真実の教えを求め続けて、32歳まで鎌倉諸大寺、高野山、そして比叡山と諸宗の諸大寺に遊学し、遂に「一切衆生を救う教えは法華経である!」との確信を得て、今から七百五十数年前、建長5年(1253年)4月28日、立教開宗の宣言をなされた。 日蓮宗の始まりである。日蓮聖人は、当時政治文化の中心であった鎌倉の町の辻々に立って教えを説き、「法華経こそお釈迦さまの真実の教えである!目覚めよ、人々!」とお説きになられた。この銅像は、平成14年、第79世 加藤日暉貫首様の代に日蓮聖人立教開宗750年ならび鎌倉布教750年を記念して建てられた。 出典:妙法寺公式Web 境内の一番奥にあるのは以下の祖師堂である。 祖師堂と水屋 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 祖師堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 祖師堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 祖師堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 ◆祖師堂(そしどう) 日蓮宗の開祖である日蓮聖人(祖師)を祀るお堂。お堂内中央正面の厨子に日蓮聖人を、向かって右脇に日朗聖人、左脇に日輪聖人をお祀りしている。当山の祖師堂は第二祖 日朗聖人建立ののち、第8世 日調聖人が再建し、現在の十二間四面の祖師堂は第47世日教聖人の時(天保年間、約170年前)に建立されたもので、鎌倉では最大規模の大きさを誇るお堂である。 祖師堂では毎年、この妙本寺の旧末寺寺院住職が出仕し、千部会(4月13日)、御会式(9月13日)法要が行われ、また比企谷幼稚園の園児達が稚児として参列して佛さまにお花を捧げる。 ちなみに、この祖師堂のあたりが、比企谷(ひきがやつ)の地名の由来、比企の尼が住まわれたところであり、「比企の尼」という女人は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の乳母であり、頼朝による開府後、頼朝公は武蔵(現在の埼玉県)の比企郡から尼をここへ招き住まわせた。 また、頼朝公の正室北条政子夫人が懐妊すると、尼の許に送り、ここで2代将軍頼家公が生まれたと伝えられている。 出典:妙本寺公式Web 妙本寺3 へつづく |