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出典:Wikipedia 妙本寺(みょうほんじ)は、神奈川県鎌倉市大町にある、日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は長興山である。 歴史 妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があった。比企能員は、源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持った。 このため、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏とは対立するようになった。1203年(建仁3年)頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きた。 能員は頼家と北条氏討伐を謀るが察知され、名越で殺害され、比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが敗れ、屋敷に火を放って自害した(比企能員の変)。若狭局は、池(蛇苦止の池)に身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死んだ。 能員の末子・能本は生き残り、後に京都へ行き、順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると、佐渡まで供をした。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に帰った。 1234年(文暦元年)竹御所は出産時に死去する。自仏像であった釈迦如来像を祀るため、新釈迦堂の建立を遺言する。1235年(嘉禎元年)新釈迦堂が建立する。竹御所は新釈迦堂のその下に葬られた。 1243年(寛元元年)仙覚が新釈迦堂の寺住となる。1246年(寛元4年)仙覚は万葉集の校訂を成し遂げる。1253年(建長5年)能本は日蓮に帰依する。 1260年(文応元年)能本は菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し法華堂を建立する。これが、妙本寺の前身である。その後、日蓮の弟子・日朗が妙本寺を継承した。以後、日蓮宗の重要な拠点となった。 当山と池上本門寺は、1941年(昭和16年)まで一人の住職が二ヶ寺を管理する「両山一首制」によって護持されていた。 池上本門寺創建から安土桃山時代までの約300年間は当山を本拠地として貫首が在山したが、1591年(天正19年)、両山12世・日惺が徳川家康の江戸入府に伴い池上本門寺に本拠を遷した。 この為、貫首不在となった当山には別当職に相当する「司務職」を置き比企谷全山を総理統監させた。なお歴代司務職には塔頭首座・本行院の住職が就任する慣わしとなった。 1842年(天保13年)天保の改革にて廃寺となった感応寺の厨子を移設する。江戸初期の弾圧までは不受不施派の末寺を多く抱えていた。26寺で末寺の68%を占めていた。2004年(平成16年)由緒寺院から霊跡寺院に昇格。 現住は82世鈴木日敬貫首(墨田区法性寺より晋山)。池上法縁五本山の一つ。 文化財 ・十界曼荼羅 弘安3年3月(1280年)揮毫。日蓮が池上宗仲邸(現在の本行寺)で臨終する際に枕元に掛けられたとされることから、「臨滅度時の御本尊」と通称され、日蓮宗の宗定本尊とされる。「蓮」の字の最終画が蛇が這うようにくねっていることから、「蛇形本尊」とも称される。 この他、日蓮真筆の曼荼羅2本(弘安3年4月、建治元年(1275年)揮毫)が伝来している。また、妙本寺二世日朗の曼荼羅(正和2年(1313年)揮毫)、妙本寺三世日輪の曼荼羅2本(観応2年(1350年)、康永2年(1343年)揮毫)、日像の曼荼羅(暦応3年(1340年)揮毫)も伝来する。 ・釈迦如来像 竹御所の供養堂であった新釈迦堂にあったもの。新釈迦堂は天保年間に祖師堂左手に移築されたが、関東大震災にて倒壊し、今日では霊宝殿となっている。 ・木造日蓮聖人像 祖師堂に安置。 ・銅造雲版 国の重要文化財 境内・伽藍 総門 一幡の袖塚 比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。 比企一族供養塔 祖師堂横に並ぶ。 前田利家室塔 前田利家の側室、三代利常の母千代保の方の供養塔と伝えられる大五輪塔。 蛇苦止堂 比企の乱で井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという若狭局を祀る。自害した若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑き、日蓮によって供養され祀られた。 蛇苦止の井 若狭局が身を投げたという井戸 祖師堂 鎌倉最大級の木造仏堂建築。 万葉集研究遺跡の碑 仙覚が成した、現在の万葉集研究につながる重要な研究を顕彰したもの。 祇園山ハイキングコース 裏手墓地から祇園山ハイキングコースの途中につながる。 祖師堂の前の海棠 初春(桜のあと)に咲く。女性をめぐって喧嘩していた中原中也と小林秀雄はここで和解した。 比企一族供養塔 次の頁に詳細がある。 一幡の袖塚 歴代住職 日蓮(開山) 日朗(2世) 日輪(3世) 日山(4世) 日叡(5世) 日行(6世) 上行院(妙音坊)と号す。 日寿(7世) 日調(8世) 日純(9世) 東眼院(東照院)と号す。 日陽(10世) 明応4年(1495年)~天文19年(1550年)2月15日。 中道院と号し、天文 18年(1549年)10世となる。 日現(11世) 塔頭 本行院 … 唱導院日顗により創建。行学院日学(比企能本)を開基とし、日朗を開山・日輪を2世・日山を3世に迎え日顗自らは4世となる。歴代住職は「司務職」として比企谷全山を総理統監した。 妙音坊 … 正和3年(1314年)創建。海老名市へ移転後、横浜市南区 三春台に妙音寺として再興。 南之坊 玄了坊 大円坊 … 境内跡地は現在比企谷幼稚園となっている。 善行坊 本成坊 朗慶坊 法泉坊 西之坊 大林坊 龍華坊 三光坊 … 正応5年(1292年)創建。慶長17年(1612年)に千葉県長生郡 睦沢町大上に移転し宗久山本長寺と改称した。 旧末寺 日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。 常光山妙勝寺(福島県双葉郡双葉町大字新山字下条) 朝日山法圓寺(栃木県栃木市西方町元) 長祐山妙福寺(町田市三輪町) 妙香山常安寺(川崎市麻生区上麻生) 妙永山善正寺(川崎市麻生区片平) 經力山妙音寺(横浜市南区三春台) 福船山安立寺(横浜市金沢区町屋町) 妙顕山常勝寺(横浜市栄区田谷) 荻野山正蓮寺(横須賀市荻野) 猿畠山法性寺(逗子市久木) 長慶山大巧寺(鎌倉市小町) 妙法華山安国論寺(鎌倉市大町) 安国論寺末:妙寿山法性寺(川崎市多摩区西生田) 法華山本興寺(鎌倉市大町) 慧雲山常栄寺(鎌倉市大町) 海潮山妙長寺(鎌倉市材木座) 行時山光則寺(鎌倉市長谷) 光則寺末:妙法山蓮清寺(町田市能ヶ谷) 光則寺末:四条山収玄寺(鎌倉市長谷) 常葉山圓久寺(鎌倉市常盤) 笛田山佛行寺(鎌倉市笛田) 龍口山妙典寺(鎌倉市腰越) 龍口山本龍寺(鎌倉市腰越) 長藤山妙善寺(藤沢市藤沢) 妙善寺末:柄澤山隆昌院(藤沢市柄沢) 正耀山法泉寺(藤沢市亀井野) 妙法山妙行寺(茅ヶ崎市松林) 村澤山本在寺(茅ヶ崎市高田) 本在寺末:遠香山浄心寺(茅ヶ崎市香川) 本立山常顕寺(茅ヶ崎市萩園) 如日山妙光寺(高座郡寒川町一ノ宮) 長秋山妙元寺(海老名市大谷) 福寿山幸延寺(相模原市南区鵜野森) 妙栄山本盛寺(厚木市船子) 大神山隆盛寺(平塚市大神) 芳澤山蓮昭寺(平塚市寺田縄) 大龍山貞性寺(平塚市田村) 法光山長源寺(秦野市曽屋) 覚栄山隆安寺(伊勢原市下平間) 学清山法眼寺(伊勢原市下粕屋) 福聚山妙輪寺(神奈川県中郡大磯町大磯) 大乗山妙昌寺(神奈川県中郡大磯町東小磯) 乗勝山妙大寺(神奈川県中郡大磯町東小磯) 妙珍山蓮昌寺(小田原市本町) 済度山法船寺(小田原市酒匂) 惺雄山蓮船寺(小田原市城山) 長照山大圓寺(南足柄市怒田) 経王山常住院(浜松市中区文丘町) 鎌倉妙本寺懐古 国木田独歩は「鎌倉妙本寺懐古」という詩を作った。これには曲がつき、戦前の教科書に採用されて親しまれていた。境内の芙蓉の花が歌われている。 夕日いざよふ妙本寺、法威のあとを弔へば、芙蓉の花の影さびて、我世の末をなげくかな。法よ、おきてよ、人の子よ、時の力をいかにせん、永劫の神またたきて、金字玉殿いたずらに、懐古の客を誘ふかな。梢の鳩の歌ふらく、ありし昔も今も尚ほ、夕日いざなふ妙本寺、芙蓉の花は美なるかな。 比企一族供養塔へつづく |