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比企一族供養塔 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 鎌倉妙本寺 2022-1-21 日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅 2022-1-21 はじめに 安国論寺1 安国論寺2 安国論寺 南面窟 妙法寺1 妙法寺2 妙本寺1 妙本寺2 妙本寺3 比企一族供養塔 蛇苦止堂 本覚寺 えびす堂 日蓮辻説法跡 光則寺 日朗土牢 雨乞伝説・霊光寺 ◆比企一族供養塔(ひきいちぞくのはか) 妙本寺は正式には「長興山妙本寺」といい、この山号寺号は日蓮聖人が直々にお付けになられたと伝えられ、「法華経(妙法蓮華経)」の根本としての寺、そしてその教えが長く興っていく、広く伝わっていくようにという願いが込められている。 そしてまた、その「長興」「妙本」をそれぞれ、かつてこの地に屋敷を構え、初代将軍 源頼朝公、2代将軍 頼家公を支えていた比企一族の党首、比企能員公とその夫人の法号(戒名)として贈られた。 比企一族が将軍家と親密になりすぎたことを恐れた北条家によって、建仁3年9月2日、比企一族は討ち滅ぼされました。多くの命がこの地で失われたと伝えられ、その精霊の供養の為に建立されたのが、祖師堂に向かって右手の四基の五輪塔である。 また、その両脇の石塔の表には「本行院日学聖人」「輪成院日教聖人」と刻まれています。「本行院日学聖人」は比企一族の末子、比企能本公であり、公は日蓮聖人に帰依し、弟子となりこの地を寄進された。 「輪成院日教聖人」は47代目の住職であり、現在の祖師堂を再建した方でもある。当時、諸堂再建に力を入れられ、「カナヅチ教師」とも呼ばれ、その偉業は今日に伝えられている。 出典:妙法寺公式Web 比企一族供養塔 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 鎌倉妙本寺 2022-1-21 以下の出典は、鎌倉手帳(寺社散策) 『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。 そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。 しかし、1203年(建仁3年)9月2日、比企能員は北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡した。 妙本寺の祖師堂横には比企一族の供養塔とともに一幡の袖塚が建てられている。 一幡の袖塚 Source: WikimediaCommons CC 表示-継承 4.0, リンクによる 一幡の袖塚 撮影:池田きこみち Nikon Coolpix S9900 鎌倉妙本寺 2022-1-21 下の写真の黄色い花は「蝋梅」。よい薫りが漂っていた。二枚目は同じ蝋梅の拡大写真。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 蛇苦止堂へつづく |