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初冬の三峯神社短訪

J三峯神社の歴


青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


December 23, 2014
Independent Media E-wave Tokyo
無断転載禁
@場所と行き方 D拝殿 H手水舎 L国常立神社
A三鳥居と狛狼 Eご神木 I本殿と奥宮 M摂末社
B神社概要、随身門 F青銅灯籠 J神社の歴史 N日本武尊像
C神楽殿 G八棟木灯台 K祖霊社 O神社の紅葉


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8         菖蒲菱


出典:三峯神社公式Web


三峯神社の歴史

 まず、以下は三峯神社公式Webに見る歴史です。

三峯神社公式Webに見る歴史

 当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。

 尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。
 
 その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。

 降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。

 又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。

 天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。

 こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。

 三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。

 東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。

 後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。

 後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。

 更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。

 現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。


社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


 以下は、池田のコメントです。



 上の菊桐の紋ですが、

 秩父三社 http://www.jinja.sa-ka-ki.jp/category/chichibu3.html

にあるように、 秩父三社の秩父神社が菊、宝登山神社が桐なので、その両者を併せた紋にしたのかもしれません。そして三峯神社は菖蒲菱紋です。



 あるいは、菊は皇室の象徴、桐は豊臣家(将軍家)の象徴として両者を示しているとか。ただ、豊臣家の紋は五七の桐ですが。紋のなかでは菊が一番格が高く、次が桐とされています。


 やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。

 以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。


◆畠山 重忠(はたけやま しげただ)

 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。

 知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)、子孫は名字を変えた。館は、鎌倉筋替橋の東南。

 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。


鵯越えで馬を背負う重忠。画:歌川国芳、江戸時代


畠山重忠の銅像 (埼玉県深谷市・畠山重忠公史跡公園)
堀口泰造(1916-1999)の作品。1988年4月設置。

出典:Wikipedia


 次に以下はWikipedia に見る三峯神社の歴史です。

Wikipediaに見る歴史

 社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。

 景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。

 三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。

 中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。養和元年(1182年)に、秩父を治めていた畠山重忠が願文を収めたところ霊験があったとして、建久6年(1195年)に東は薄郷(現・小鹿野町両神あたり)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えた。

 しかし正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。

 文亀年間(1501年-1504年)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533年)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。


三峯神社付近略図   1938年

 以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。

 以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)を寺の定紋とした。

 江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。

 修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。

 伊奈忠福(伊奈氏はもともと関東郡代の一族だったが家督争いから一旦名跡取り上げとなり、その後秩父郡の小普請となった)の代に、土地山林を寺に寄進し、広く村人に信仰を勧め栄えたが、明治の神仏分離により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。

 明治16年(1883年)に近代社格制度において県社に列した。明治中期には、社務所に600人が泊まれる施設があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていたという。大正末期に秩父宮が参拝したことをきっかけに信徒が全国的に増え、講社数が増大した。

 昭和14年(1939年)には、麓から参道に沿ってケーブルカーが山頂まで敷設された(2007年廃止)。平成16年(2004年)に社殿を修復した。

◆三峰ロープウェイ(みつみねロープウェイ)

 かつて存在した埼玉県旧大滝村(現秩父市)の大輪駅と三峰山頂駅を結ぶ索道である。秩父鉄道が経営していた。施設の老朽化および金属疲労が判明したため2006年5月19日から2007年5月31日までの予定で運休していたが、2007年4月23日に廃止の方向に転向。

 秩父市などと話し合いを行っていたが、再開には多額の投資が必要なこと、再開しても経常的な赤字が見込まれ、秩父鉄道の本業(鉄道事業)の存続問題にも関わることから休止のまま2007年12月1日で廃止となった。

・路線データ[編集]
・路線距離(営業キロ):1.9km
・方式:4線交走式
・駅数:2駅(起終点駅含む)
・高低差:680m

・運行形態
・30分間隔で運行され、多客時には増発運転を行っていた。所要時間8分。

 以上、Wikipedia

 以下は三峯神社公式Webより

 昭和14年に秩父鉄道により三線交走式で建設されましたが、登山者の増加に伴って昭和39年に四線交走式71人乗りに改装されました。 全長1900メートル、標高差680メートル。山麓の大輪と山頂駅をおよそ8分で結びます。片道950円、往復1650円。

 以下は路線図です。


出典:http://blogs.yahoo.co.jp/s_limited_express/31494663.html


つづく