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2011年12月26日、会津若松地区の西会津地区における放射線調査が一段落したとき、わずかな時間であるが、吹雪吹く、鶴ヶ城を訪問した。 雪の鶴ヶ城(若松城、黒川城、会津若松城とも言われる) 撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2011.12.26 雪の鶴ヶ城の三の丸近くの堀 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26 雪の鶴ヶ城の三の丸近くの堀 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26 ●蒲生氏郷と鶴ヶ城 15世紀半ば黒川城とその城下が成立していたとされる。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て黒川城を中心に広大な版図を築いた。 1589年(天正17年)、蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視し蘆名氏を滅ぼし黒川城を手に入れたが、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。 正宗に代わり黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年) より大大名に相応しい近世城郭に改造した。また城下町を整備した。1593年(文禄2年)望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重の天守が竣工し、名を「鶴ヶ城」に改めた。 その蒲生氏郷は当代一流の武人であり政治家であったが、同時に文化人でもあった。とりわけ茶の湯は千利休の高弟として知られるところであった。千利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評している。しかしながら、氏郷は40歳で生涯を終えている。秀吉が世を去る3年前のことである。 雪の鶴ヶ城の鉄門近くにて 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26 以下は、初代 蒲生氏郷(幼名、鶴千代。 夫人は織田信長の娘、冬姫)の生涯である。 弘治2年(1556) 近江国日野城主、蒲生賢秀の長男として生まれる。 永禄11年(1568) 13歳の時、小田信長の人質となり、岐阜城に入る。 天正10年(1582) 本能寺の変で日野城に信長の一族を守り立て籠もる。 天正12年(1584) 伊勢の北畠氏攻めの功績で伊勢松ヶ島へ12万石で移封。 天正16年 松阪城を築く。 天正18年(1590) 8月、豊臣秀吉とともに黒川(若松)へ入る。会津92万石。 文禄元年(1592) 黒川を若松と改め城下町を整備。 文禄2年(1593) 若松城天守閣が完成する。 文禄4年(1595) 肥前(佐賀県)の名護屋城で病に倒れ、京都の蒲生邸で亡くなる。 文禄5年(1596) 興徳寺に無縫塔(卵形)が建てられる。 蒲生氏郷像 蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(或いはレオ)。子に蒲生秀行。 蒲生氏郷、辞世の句 限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 (風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまう。 それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか) まだまだ武将として働いていける。その矢先の死に悔いの残る辞世である。 以下は、公式ページに見る蒲生氏郷
つづく |