エントランスへはここをクリック   


いわき市>
勿来の関


 青山貞一  池田こみち 
掲載月日:2011年12月29日
 独立系メディア E−wave 無断転載禁

第5次福島県内現地調査〜歴史文化編〜(2011.12.25-27)
@<北茨城>六角堂と岡倉天心 F<会津若松市>蒲生氏郷と鶴ヶ城
A<いわき市>勿来の関 G<会津若松市>蒲生氏郷と茶室・麟閣
B<いわき市>勿来火力の復旧状況   H<奧会津>西会津の冬景色
C<いわき市>岩間の復旧状況 I<奧会津>下郷町の雪風景と大内宿
D<いわき市>漁港の復旧・復興状況 J<奧会津>いつもと変わらない南会津
E<いわき市>豊間海岸と薄磯海岸

 私たちは、北茨城市の大津港と六角堂の津波被災地を現地視察した後、茨城県に接する福島県いわき市の勿来(なこそ)に向かった。

 勿来には常磐共同火力の巨大火力発電所があり、そのすぐ隣には津波で大被害を受けた岩間の住宅地があるが、「勿来関」がある場所は高台で被害は免れている。

 勿来火力と岩間地域の復興復旧状況についてこれについては別途論考を書いたので参照して欲しい。

 勿来と言えば、律令時代に「勿来関」が設置されたという説がある。説があるというのは、平安時代など律令時代に本当にこの地に関があったのかどうかは依然として不明であるからである。事実、その存在自体を疑う説もある。

 しかし、勿来関は古代から歌枕となっている関の1つであり江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている。

 たとえば源義家は、「吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな」と唱っている。


源義家像
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.25

 勿来関と和歌、短歌については、勿来関文学歴史館の以下の解説を参照して欲しい。

●勿来の関について

 勿来関は、平安時代の武将源義家の「吹風をなこその関とおもへども・・・」の和歌をはじめ、紀貫之、小野小町、和泉式部、西行法師など、おなじみの歌人も和歌に詠んだ有名な歌枕です。

 江戸時代には、水戸と磐城、相馬、仙台をつなぐ浜街道に沿っていくつかの宿場があり、勿来町にも関田宿という宿場町が形成されていました。

 飛鳥井雅宣、西山宗因、徳川光圀、吉田松陰が、この勿来関への想いをそれぞれの胸に風光明媚な当地を訪れています。

 近代には、源義家の歌碑や、芭蕉の句碑が建てられ、斎藤茂吉、山口茂吉、徳富蘆花、角川源義、中里介山などが当地を文学作品に残しています。
 以下のは、@小野小町、A飛鳥井雅宣、B源義家、C斉藤茂吉が詠んだ歌とその現代語解説である。


 
出典:勿来関文学歴史館公式Web 


勿来八景祈念碑の前で
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.25


いわき市勿来の関公園   出典:グーグルマップ

 ところで漢語で「勿来」とは「来ル勿(ナカ)レ」、つまり「来るな」という意味である。当時、蝦夷の南下を防ぐ意味を持っていたという説もある。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.25

 勿来は常陸国(現在の茨城県)との境界付近は断崖となっており、この難所を抜けたところに関が位置したことから、関東地方の武士たちから重視され、源義家も「勿来」に立ち寄っている。

 律令制の令制国では、当初石城国であったが、数年で陸奥国に編入され平安時代から戦国時代までは岩城氏の領土の南端で、江戸時代には磐城平藩の領土の南端であった。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.25

 勿来は明治時代になって陸奥国が分割された際、磐城国の一部となり、1871年8月29日の廃藩置県で当初は磐前県に所属したが、1876年8月21日に磐前県が福島県に編入されて以降、福島県に所属している。

 1954年に市制施行して「勿来市」が発足したが、1966年10月1日には大規模合併で現在の「いわき市の一部の勿来町となっている。

参照・引用 Wikipedia 勿来関、勿来の関

つづき