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私たちは、北茨城市の大津港と六角堂の津波被災地を現地視察した後、茨城県に接する福島県いわき市の勿来(なこそ)に向かった。 勿来には常磐共同火力の巨大火力発電所があり、そのすぐ隣には津波で大被害を受けた岩間の住宅地があるが、「勿来関」がある場所は高台で被害は免れている。 勿来火力と岩間地域の復興復旧状況についてこれについては別途論考を書いたので参照して欲しい。 勿来と言えば、律令時代に「勿来関」が設置されたという説がある。説があるというのは、平安時代など律令時代に本当にこの地に関があったのかどうかは依然として不明であるからである。事実、その存在自体を疑う説もある。 しかし、勿来関は古代から歌枕となっている関の1つであり江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている。 たとえば源義家は、「吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな」と唱っている。 源義家像 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.25 勿来関と和歌、短歌については、勿来関文学歴史館の以下の解説を参照して欲しい。
勿来八景祈念碑の前で 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.25 いわき市勿来の関公園 出典:グーグルマップ ところで漢語で「勿来」とは「来ル勿(ナカ)レ」、つまり「来るな」という意味である。当時、蝦夷の南下を防ぐ意味を持っていたという説もある。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.25 勿来は常陸国(現在の茨城県)との境界付近は断崖となっており、この難所を抜けたところに関が位置したことから、関東地方の武士たちから重視され、源義家も「勿来」に立ち寄っている。 律令制の令制国では、当初石城国であったが、数年で陸奥国に編入され平安時代から戦国時代までは岩城氏の領土の南端で、江戸時代には磐城平藩の領土の南端であった。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.25 勿来は明治時代になって陸奥国が分割された際、磐城国の一部となり、1871年8月29日の廃藩置県で当初は磐前県に所属したが、1876年8月21日に磐前県が福島県に編入されて以降、福島県に所属している。 1954年に市制施行して「勿来市」が発足したが、1966年10月1日には大規模合併で現在の「いわき市の一部の勿来町となっている。 参照・引用 Wikipedia 勿来関、勿来の関 つづき |