エントランスへはここをクリック   


<会津若松>
蒲生氏郷と茶室・麟閣

池田こみち 青山貞一
掲載月日:2011年12月27日
 独立系メディア E−wave 無断転載禁

第5次福島県内現地調査〜歴史文化編〜(2011.12.25-27)
@<北茨城>六角堂と岡倉天心 F<会津若松市>蒲生氏郷と鶴ヶ城
A<いわき市>勿来の関 G<会津若松市>蒲生氏郷と茶室・麟閣
B<いわき市>勿来火力の復旧状況   H<奧会津>西会津の冬景色
C<いわき市>岩間の復旧状況 I<奧会津>下郷町の雪風景と大内宿
D<いわき市>漁港の復旧・復興状況 J<奧会津>いつもと変わらない南会津
E<いわき市>豊間海岸と薄磯海岸

 2011年12月26日、会津若松地区の西会津地区における放射線調査が一段落したとき、わずかな時間であるが、吹雪吹く、鶴ヶ城の一角にある茶室、麟閣を短訪した。

千利休の子、少庵が蒲生氏郷のためにつくった茶室・麟閣

 蒲生氏郷は当代一流の武人であり政治家であったが、同時に文化人でもあった。とりわけ茶の湯は千利休の高弟として知られるところであった。千利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評している。しかしながら、氏郷は40歳で生涯を終えている。秀吉が世を去る3年前のことである。

 会津若松の鶴ヶ城をつくり城下町を整備した武人であり文化人の蒲生氏郷は、茶道では千利休の七哲(しちてつ)の一人に数えられている。

 その氏郷は千利休が秀吉の逆鱗にふれ自害したあと、利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、利休の子、少庵(しょうあん)を会津領内に保護し、少庵が氏郷のために鶴ヶ城の一角に造ったと伝えられているのが茶室「麟閣」である。その少庵は茶道三千家への道筋をつくったとされている。

 三千家とは、茶道の流派のうち、表千家・裏千家・武者小路千家を指す。利休の死後、茶の湯の後継者としては先妻の子である嫡男・千道安と、後妻の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名である。道安は堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶したため、少庵が継いだ京千家の家系の系統(三千家)が現在に伝わる。少庵の次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵
・裏千家今日庵となっている。


鶴ヶ城と茶室、麟閣


大雪が降る会津若松の鶴ヶ城と茶室、麟閣
動画撮影:青山貞一 YashikaHD 2011年12月26日




茶室、麟閣の入場券(大人200円)

 当日は、折からの大雪、しかもマイナス3℃と凍てつく寒さだった。下の写真は茶室・麟閣の入り口に立つ池田こみち。


福島県会津若松市 若松城にある茶室、麟閣にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.12.26


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26


撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.12.26


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.12.26

 なお、以下は公式ホームページにある「麟閣の歴史」

●茶室・麟閣の歴史

 豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していきました。

 氏郷は織田信長の娘婿であり、器がおおきく勇猛な武将であるうえ、この時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。

 天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。

  その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。

 少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。

 そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。

 しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。

 会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました。



出典:公式ホームページ


つづく