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日蓮の足跡を辿る東京の旅

池上本門寺再訪


11.紀伊徳川家墓所

青山貞一・池田こみち・ 斉藤真実
April ~May, 2018  
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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 塔頭① 塔頭とは、本行寺
 塔頭② 実相院、真性院、西之院、厳定院、南之院、理境院
 塔頭③ 覚源院、本成院、本妙院、常仙院、中道院
 塔頭④ 東之院、安立院、法養寺、永寿院、心浄院
 塔頭⑤ 妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺

境内・募所・御廟所


境内マップ  出典:池上本門寺公式Web


・紀伊徳川家墓所

  池田さんの推察通り、何と、宝塔のすぐ後ろに、たくさんの紀伊徳川家の墓所と灯籠がありました。



 具体的には、大田区指定史跡として、以下の紀伊徳川家墓所がありました

 ・「松寿院宝篋印塔」 徳川頼宣の娘松姫の供養塔。
 ・「真空院宝篋印塔」 徳川頼宣の子、四歳で夭折。
 ・「養珠院宝塔」徳川 家康の側室で、徳川頼宣と水戸徳川家の徳川頼房の生母。
 ・「妙操院一重塔」   徳川家斉の側室で徳川斉順の生母。
 ・「天真院宝塔」    徳川光貞の簾中で伏見宮貞清親王の姫・安宮。
 ・「揺林院宝塔」    徳川頼宣の正室で加藤清正の娘。
 ・「寛徳院宝塔」    徳川吉宗の簾中で伏見宮貞致親王の姫・真宮。
 ・「霊岳院宝塔」    徳川光貞の三女で徳川吉宗の姉にあたる育姫。

 以下が池田こみちが撮影した池上本門寺にあった紀伊徳川家の墓石の写真です。墓石と灯籠が右から左にかけて五基づつあります。


池上本門寺の紀州徳川家の墓所と徳川家の灯籠五基 
撮影:池田こみち  Nikon Coolpix s9900  2018-4-4


紀州徳川家墓所 宝塔立面図
『大田区の文化財第36集 大田区の史跡名勝天然記念物』
(大田区教育委員会2008)より
『大田区の文化財第36集』「紀伊徳川家墓所」平面図
https://twitter.com/yoshitaka1197/status/965541881508642816
出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について
上記より現地調査により池田こみち作成  今後追加調査で拡充予定 


紀州徳川家墓所 宝塔平面図
『大田区の文化財第36集 大田区の史跡名勝天然記念物』
(大田区教育委員会2008)より
『大田区の文化財第36集』「紀伊徳川家墓所」平面図
https://twitter.com/yoshitaka1197/status/965541881508642816
出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について

 以下順を追って上記五院の概要を紹介します。

・松寿院
 
「松寿院宝篋印塔」 徳川頼宣の娘松姫の供養塔
  
頼宣の息女・松姫の供養塔。光貞、芳心院の妹。延宝6年(1678)没
   「松寿院法栄日経大姉」 松平(鷹司)信平室。 寛永8年(1631)9月23年生まれ。


・真空院

  徳川家康側室お万の方。蔭山殿。頼宣と水戸の頼房の生母。
   「養珠院妙紹日心大姉」承応二癸巳暦八月二十一日 承応2年(1653)没 74歳(77歳)
   紀州・養珠寺、水戸・蓮華寺(のち久昌寺)、玉沢・妙法華寺 他多数。

養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))


養珠院の墓石の刻印 はっきりと養珠院と刻まれている
撮影:青山貞一  Nikon Coolpix s9900  2018-4-4

 養珠院は徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。実父は勝浦城主・正木頼忠。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春。母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭の娘、あるいは田中泰行の娘(=北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉の娘・姪)ともいい、諸説ある。

 実父の正木頼忠は上総勝浦城主正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は後北条家家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。

 伊豆で成長した万は慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となった。万は慶長7年(1602年)3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年8月に鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石が長福丸に与えられ、慶長11年(1606年)に下総下妻10万石が鶴千代に与えられた。慶長14年(1609年)には、長福丸は駿河・遠江50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封された。

 義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。

 この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物が万に下賜されたという。彼女は家康の死去した後、元和5年(1619年)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。承応2年(1653年)、万は死去した。

 墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。

 ※お万の方のエビソード
   (お万の方(養珠院)の死装束 17歳にして
   54歳の徳川家康へ嫁いだ側室の大胆な話

妙操院(みょうそういん、生年不詳 - 天保3年10月19日(1832年11月11日))
 江戸時代の女性。徳川家斉の側室。名は登勢。父は梶勝俊。子女は徳川斉脩室・峰姫、徳川治寶の養子となる徳川斉順、早世した寿姫・晴姫ら1男3女。天保3年(1832年)に死去。享年は40代から50代ごろ。法名は妙操院性月良仁大姉。もしくは妙操院殿円誉性月良仁大姉。墓所は伝通院。池上本門寺紀伊徳川家墓所には「妙操院一重塔」がある。また徳川家茂、菊姫、庸姫、伊曾姫の祖母にあたる。

天真院(てんしんいん 豊臣 完子(とよとみ の さだこ)
  羽柴 完子(はしば さだこ、文禄元年(1592年)1月もしくは2月 - 万治元年8月18日[1](1658年9月15日))
 天真院は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性です。九条幸家の正室。従二位。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、明正天皇の伯母にあたる。

瑤林院(ようりんいん、慶長6年(1601年) - 寛文6年1月24日(1666年2月27日))
 紀州藩祖徳川頼宣の正室である。加藤清正の娘で、名は八十姫(やそひめ) といった。
 慶長6年、加藤清正の第5子、次女として肥後国に生まれる。母は徳川家康養女清浄院(水野忠重女)。

 慶長14年(1609年)、徳川家康と加藤清正の合意により婚約。翌年9月徳川家より結納使として頼宣の伯父三浦為春が肥後に下って納幣。清正・家康も没した後、将軍の命により生母清浄院の兄で福山城主水野勝成の養女[2]として、元和3年(1617年正月22日17歳、肥後より駿河駿府藩主徳川頼宣に輿入れ。

 元和5年(1619年)に頼宣が紀州藩主となると、夫とともに紀州に入る。寛永10年(1633年)に江戸の紀州藩邸に移るまで14年間和歌山城で暮らした。父母と同様日蓮宗信者となり、池上本門寺に崇敬し、加藤清正供養塔を寄進する。正保4年(1647年)鐘を寄進。同寺は後に紀州徳川家菩提寺となった。
 
 明暦2年(1656年)9月17日、生母清浄院が京都で逝去するとこれを深く悲しみ、日蓮宗六条門流大本山本圀寺の清正廟[3]の隣に埋葬。両親に並んで瑤林院自身の逆修墓(生前墓)を建立、墓前に池を配し、加藤家墓地として整備した。また清正(浄池院)と清浄院の戒名を並べた父母位牌(和歌山 報恩寺蔵)を作り、自室仏間に置いて日夜篤く供養したという

寛徳院(かんとくいん)、理子女王(まさこじょおう)
 元禄4年8月18日(1691年9月10日) - 宝永7年6月4日(1710年6月30日))
 は、江戸時代中期の女性。後に江戸幕府第8代将軍となった徳川吉宗が紀州藩第5代藩主だった頃の御簾中(正室)。伏見宮貞致親王の王女。

 紀州藩第2代藩主・徳川光貞の御簾中・照子女王は伯母、第4代将軍・徳川家綱の御台所・顕子女王は叔母、第9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中・増子女王は姪に当たる。幼称は真宮(さなのみや)。院号は寛徳院(かんとくいん)。


寛徳院の墓石
撮影:青山貞一  Nikon Coolpix s9900  2018-4-22

・霊岳院(れいがくいん)  1675~1693 (元禄6年) (19) 
  光貞の三女、吉宗の姉・育姫(のりひめ)。出羽久保田藩佐竹義苗室。
  「霊岳院殿日觀淨境大姉」 日玄花押 1675~1693 (元禄6年) (19)


霊岳院の墓石
撮影:青山貞一  Nikon Coolpix s9900  2018-4-22


霊岳院の墓石
撮影:青山貞一  Nikon Coolpix s9900  2018-4-22

 以下は紀伊徳川家墓所の遠景写真です。


池上本門寺の紀州徳川家の墓所と徳川家の灯籠五基 
撮影:青山貞一  Nikon Coolpix s9900  2018-4-4


池上本門寺の紀州徳川家側室の墓所もあったシャガ
撮影:池田こみち  Nikon Coolpix s9900  2018-4-4

 ※シャガ(射干、著莪、胡蝶花、学名:Iris japonica)は、アヤメ科アヤメ属の多年草。

 紀伊徳川家墓域の東端には、写真のように枝垂桜が満開でした。


撮影:池田こみち  Nikon Coolpix s9900  2018-4-4

 この池上本門寺にあった紀伊徳川家のお万の方以下五人の募所については、以下の池上本門寺の考古学においても記載されています。

◆池上本門寺の考古学

 池上本門寺には多数の近世(江戸時代)の墓所が分布し、狩野探幽墓所などは文化財指定を受けています。2002年(平成14年)から2003年(平成15年)には、重要文化財五重塔の解体修理に伴い、塔周辺の墓地整理が行なわれました。

 大名墓として、米沢藩上杉家圓光院殿墓所、肥後熊本藩細川家清高院殿及び高正院殿墓所の3墓所、また奥絵師狩野家の4家(仲橋狩野宗家、鍛冶屋町狩野、浜町狩野、木挽町狩野)の1つ、木挽町狩野家2代目狩野養朴常信墓所、3代目狩野如川周信墓所、9代目狩野晴川院養信墓所の3墓所の発掘調査が、立正大学の坂詰秀一教授を団長に、本門寺と大田区教育委員会、立正大学考古学研究室により実施されました。

 調査により、近世墓の上部構造と下部構造が考古学的に解明されまし。特に下部の埋葬施設に関しては調査例が僅かであり、重要な調査成果と評価されている。墓所は解体修理された後、若干位置を移動され、現在は補強の上復原整備されています。調査成果は発掘調査報告書として刊行されました。発掘調査報告書は、本門寺霊宝殿受付にて購入可能です。

 紀州徳川家内室の墓所西側に南北方向に走る土手があり、池上氏館居館部分の土塁と考えられています。徳川家墓所に面した土塁東側斜面の一部には、墓所造営に伴うと見られる石垣で覆われています。

 大田区教育委員会によると、宝塔及び徳川氏墓所、大坊本行寺を含む台地西側の谷一帯は、池上氏館の根小屋(居館部分)であり、土塁は根小屋に付随する遺構と考えられています。


紀州徳川家内室の墓所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018年4月4日


紀州徳川家内室の墓所と灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018年4月4日

出典:Wikipedia

 この辺りはサクラ、シャガ以外にも、さまざまな樹木や野草が生い茂っていました。

 以下の写真は紀伊徳川家墓域の一番東側、日蓮聖人御廟所側でひっそりと咲いていた椿の花です。


撮影:斉藤真美  Canon IXY 10S  2018-4-4

 下は落ちていた椿(つばき)の花びらを池田が墓石の上に置いた写真です。


撮影:池田こみち  Nikon Coolpix s9900  2018-4-4


つづく