日蓮の足跡を辿る東京の旅 池上本門寺再訪 15.本門寺の墓所 青山貞一・池田こみち・ 斉藤真実 April ~May, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
サクラ速報 日蓮と本門寺 池上の歴史 地形と地理 総門と此経難持坂 仁王門・日朝堂・長栄堂 鐘楼・日蓮像・五重塔 大堂・経蔵・本殿 休所と松濤園 多宝塔 紀伊徳川家募所 歴代聖人御廟所 日蓮聖人御廟所 所蔵文化財と霊宝殿 本門寺墓所 参道・甘味所 洗足池概要 日蓮と洗足池 塔頭① 塔頭とは、本行寺 塔頭② 実相院、真性院、西之院、厳定院、南之院、理境院 塔頭③ 覚源院、本成院、本妙院、常仙院、中道院 塔頭④ 東之院、安立院、法養寺、永寿院、心浄院 塔頭⑤ 妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺 池上本門寺には今まで紹介した以外に、多くの墓所、墓石があります。以下にその主なものを紹介します。 ◆前田利家室層塔 池上本門寺・ ー死後の冥福を祈り、生前に建立した寿福院の十一層塔ー 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-3-25 江戸幕府 が開府され、幕藩体制を確保するために大名の妻が江戸に集められました。寿福院は利家の正室芳春院(2代利長生母)付の侍女でしたが、利長の側室となり三代利常を生み、家康との関係を悪化させないため関ヶ原前年に芳春院が人質として江戸の送られ、15年にわたる人質生活ののち金沢に戻ります。替わりに送られたのが寿福院でした。彼女が生前に死後の冥福を祈り造ったのが十一層塔である。現在は五層のみが残されています。 この前田利家室層塔は五重塔参道入り口左側にあります。高さ3.77メートル。日樹の銘文があり、造立年代は元和8年(1622年)で前田利家夫人寿福院日栄が生前に建てた逆修供養塔です。彼女は熱心な法華信仰者であり、京都の妙顕寺にも同様な層塔を造立しています。天保4年(1833)に修復が加えられている。この墓域は現在整理が行われています。 出典:東京都大田区教育委員会 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について ※逆修供養塔とは 逆修とは自分より先に亡くなった年下という意味があり、若くして他界した誰 かを慕い供養したもの。または生前に自分の墓碑や卒塔婆を建て供養し死 後に功徳を得る習わしに従って、建立したもの。 ◆松平頼真卿 正室 永昌院 薫姫の墓 ~四国讃岐守 6代高松藩主松平頼真卿 正室の墓~ この墓は、水戸徳川家の流れをくむ讃岐高松藩6代藩主の正室「永昌院 薫姫」(紀伊徳川宗直御息女)(1744~1785)のものです。 正室でありながら子はなかったようで、8代高松藩主「 松平頼儀」(1775~1829)は、側室の即就院 中山ハナの長男 頼儀(雄丸)です。墓の場所は、力道山墓へ向かう途中、銀幕の女王「粟島すみ子墓」の斜め後ろに位置しています。 出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について ◆於須磨の方 ~八代将軍 徳川吉宗が紀州の時の側室 於須磨の方~ 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 於須磨(おすま)の方は、八代将軍徳川吉宗が紀州藩主の頃の側室である。また、九代将軍徳川家重の生母です。 家重を生んだ後も懐妊したが、難産のため母子ともに亡くなった。 正徳3年(1713)享年26才、戒名は「深徳院妙順日喜大姉」です。上がその写真です。場所は五重塔から力道山の墓へ向かう途中右側にあります。時代劇にも登場するので、中高年の方はご存じかも知れません。 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について ◆出羽米沢藩上杉家の墓所 ー大堂を望む五重塔横にある、出羽米沢藩上杉家の墓所ー 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 出羽米沢藩上杉家の墓は、五重塔参道正面から見ると左にあります。2005年の五重塔修理に伴い周辺墓地の改修が行われ現在地に移されました。元の位置は五重塔裏側にあたるところにありました。写真左は上杉家4代綱憲室で宝永2年46才で死去、「円光院殿日仙榮寿大姉」(紀伊徳川光貞の娘)の墓所です。 五重塔保存改修に伴い位置を移動するため、墓(宝塔)の調査が行われた。基盤は7メートル四方もあり、その地下には1メートル堀り石室が造られていました。木製の骨を納めたともわれる箱、出土品は白磁壺などです。 下の写真は墓域に上がる階段、右とその奥に見える墓石群は肥後熊本藩細川家の墓域です。 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について ◆加藤清正家供養塔 出典:本門寺霊宝殿Web 加藤清正公の娘(あま姫)で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室となった瑤林院殿浄秀日芳大姉が、慶長16年(1611)6月14日に没した厳父清正公(浄池院殿日乗台霊)を供養するため、第18世日耀聖人代の慶安2年(1649)の命日に建立しました。共に熱心な法華信者であった父娘の、信仰心と孝養心がうかがわれ、貴重です。 ◆肥後熊本藩細川家の墓所 ー大堂を望む五重塔横、肥後熊本五十四万石 細川家の宝塔ー 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 三代光尚の側室「清高院日圓大姉」、宝永7年(1710)逝去(四代綱利生母)。写真右側の宝塔です。真ん中の宝塔は熊本新田藩初代細川宣紀側室「高正院妙泉日流大姉」(五代宣紀生母)、享保6年(1721)逝去のもの、明治時代に移築されたものです。 肥後熊本藩藩主・細川重賢と藩御絵師 狩野朴仙について 墓の調査 (2005年) 2005年の五重塔(重要文化財)保存改修に伴い周辺簿域の位置を移動するため、墓の調査が行われました。清高院日圓大姉の墓からは優れた蒔絵技法の料紙箱や身の回りの品物が発見されました。墓地の周溝や門柱あとなども当時の墓を復元する重要な資料となりました。調査は立正大学前学長坂詰秀一氏を中心に「近世墓所調査団」が行いました。調査報告は池上本門寺で発売されており、簡単なパンフレットは霊宝殿の案内所でもらえます 文、写真の出典:東京都大田区教育委員会 ◆狩野探幽(かのう たんゆう)家墓、 慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日)) 文、写真の出典:本門寺霊宝殿Web 狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師です。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いのですが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白をに生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作りました。 探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えましたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となりました。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られます。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されています。 出典:Wikipedia 檜図屏風」狩野永徳(伝)国宝 出典:東京国立博物館蔵 2016.06.18 狩野深幽(玄徳院守信日道)は永徳の孫にして孝信の子。父と共に慶長19年(1614)江戸へ下向、鍛冶橋門外の屋敷と二百石を賜り、鍛冶橋狩野の初代となる。幕府の奥(御用)絵師として活躍し、狩野派中興の祖と称せられる。延宝2年(1674)10月7日に没した。墓は珍しい瓢箪形で、墨壷をかたどったという。探幽にふさわしい。 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について ◆狩野考信(かのうたかのぶ)墓 ー宝篋印塔に囲まれている中橋狩野宗家・木挽町狩野家墓所ー 「右近考信(うこんたかのぶ)」(1571~1618年)の宝篋印塔 戒名・圓大院考信日養 元和4年(1618)没 狩野考信彼は狩野永徳の次男であり、長男光信なきあと彼(光信)の長男貞信が正当の中橋狩野家を継ぐはずでしたが、若くして没したため孝信が継ぐことになりました。孝信は狩野家をまとめた中興の祖です。 長男探幽(たんゆう)は鍛治橋狩野家となり、次男尚信(なおのぶ)は木挽町狩野家を創り上げました。三男安信(やすのぶ)は死んだ貞信の養子として、宗家中橋狩野家を相続しました。後に常信(つねのぶ)の子・ 岑信(みねのぶ)が浜町狩野家を起こしています。 右近考信の画として御所造営に描いた絵が、仁和寺に『賢聖障子』(1613年作)として伝わっています。 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 写真の宝篋印塔は狩野探幽がデザインしたものです。大田区の文化財となっています。2017.08.13 更新 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について文、写真の出典:東京都大田区教育委員会 ◆狩野養信の墓(晴川院)と狩野養朴常信 ー五重塔横にある木挽町狩野家の墓ー 狩野養信の墓(晴川院)と狩野養朴常信 狩野晴川院養信について 晴川院養信(1796~1846)は、木挽町狩野家の9代目であり、文政11年(1828)に家督を相続する。天保期(1830年より)の江戸城再建時に活躍した障壁画制作の中心人物です。彼は障屏画制作のため古画の写本、下絵、草稿を残したり「公用日記」という仕事の記録を残したことで知られています。天保4年(1833) に法印に叙せられました。平成20年のNHK大河ドラマ「篤姫」における江戸城障屏画は狩野養信の記録を参照したと思われます。また、彼は狩野探幽以来の俊英と言われて期待をになった狩野派最後の絵師でもあります。 この木挽町狩野家墓域には、狩野養信の墓と狩野常信(狩野養朴常信 木挽町狩野家2代)と狩野周信(狩野如川周信木挽町狩野家3代)の墓もあります。全て亀趺(きふ)形碑形の墓です、下の写真のようにシンプルな亀の形です。 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 2003~5年にかけて五重塔解体修理の時に、周辺の墓も調査が行われた。調査は、立正大学の坂詰秀一教授を団長に、本門寺と大田区教育委員会、立正大学考古学研究室により実施された。調査報告は本門寺霊宝殿受付にて購入可能となっています。(参考・坂詰秀一編 2004 『池上本門寺奥絵師狩野家墓所の調査-狩野養朴常信墓所・狩野如川周信墓所・狩野晴川院養信墓所-』 文、写真の出典:東京都大田区教育委員会 ◆因幡鳥取池田家、慶春院と長源院 ー池田家四代綱清の室、「長源院」と娘「慶惷院」の宝塔が並ぶー 因幡鳥取三十二万石池田家の墓所 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 写真左が二代綱清室「長源院」の宝塔、右側はその娘「慶春院」の宝塔です。場所は五重塔参道なかば右側にあります。初代光仲は3才の幼少で岡山藩三十一万五千石を受け継ぎますが、山陽の拠点岡山は難しかろうと言うことで、因幡鳥取三十二万に領地替えになります。二代綱清は長男です。本国鳥取には広大な池田家墓所があり、史跡となっています。また、徳川家の血が入っており「三葉葵の紋」の使用を許されています。 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について ◆幸田露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日) 幸田露伴 / Japanese writer/essayist Rohan K?da (1867?1947) 出典:Wikimedia Commons 池上本門寺の幸田露伴の墓 出典:日本人の墓、著名人の墓 幸田露伴について 時代を築いた小説家 幸田露伴 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 幸田露伴は幕臣幸田利三(成延)の四男として生まれた(慶応3年(1867年)7月23日生)。子供の頃は病弱でした。明治11年(1878年)に東京府第一中学(現在の東京都立日比谷高等学校)正則科に入学します。尾崎紅葉や上田萬年、狩野亨吉らと同級生でした。一度は官職になり電気技師となりますが、文学に心を奪われ、特に坪内逍遙の『小説神髄』や『当世書生気質』などに影響を受けたようでした。 明治20年(1887年)職を放棄し北海道から東京に帰京。父の仕事を手伝い文学に傾倒する、世の注目を集めたのは、処女作「露団々」(明治22年)が「都の花」に発表された後のことです。出世作は『風流仏』(明治22年)です。 明治24年に有名な『五重塔』を発表します。尾崎紅葉と共に「紅露時代」と呼ばれる時代を築きました。第一回の文化勲章授与者です(昭和12年)。 昭和22年(1947)7月30日死去、79才でした。墓名は「露伴幸田成行」です。右端の墓が幸田延の墓、五重塔裏側にあります。 幸田延子の墓は間違い、本名は幸田延です 文、写真の出典: 『馬込と大田区の歴史を保存する会』について 幸田露伴の経歴、実績の詳細 出典:Wikipedia 以下は晩年 出典はWikipedia 1937年(昭和12年)4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。1947年(昭和22年)7月30日、肺炎に狭心症を併発し、戦後移り住んだ千葉県市川市大字菅野(現:菅野四丁目)において、満80歳で没。墓所は池上本門寺。戒名は、露伴居士。 死後、墨田区寺島町にあった露伴が長く住んでいた民家の老朽化が進み取り壊された時に、その跡地に公園が建設される事となった。公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し5月上旬に開園式が行われ、「露伴公園」の名前が付けられた。 なお、池上本門寺には以下の著名人らの墓もあります。 ●紀伊徳川家墓域 本稿 所蔵文化財と霊宝殿 に詳細があります ●芳心院(お万の方の孫娘)一万両墓 本稿 塔頭 の永寿院に概要があります。 ●松本幸四郎(まつもとこうしろう)墓、歌舞伎役者7代目 ●花柳章太郎(はなやぎしょうたろう)墓、新派俳優 ●溝口健二(みぞぐちけんじ)墓、映画監督 ●市川雷蔵(いちかわらいぞう)墓、映画俳優(墓銘太田) 撤去 ●栗島すみ子(くりしますみこ)墓、映画女優 ●永田雅一(ながたまさいち)墓、映画会社 ●星亨(ほしとおる)墓、政治家 ●大野伴睦(おおのばんぼく)墓、政治家 ●児玉誉士夫(こだまよしお)墓、実業家 ●力道山(りきどうざん)墓、プロレスラー ●片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)墓、歌舞伎役者3代目 ●狛犬が護る墓 ●大窪詩佛と小川泰堂の墓 顕彰碑 江戸文化文政頃の漢詩人 つづく |