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目眩く歴史の要所で「茶の湯」など稀有な文化が偲ばれる


龍寶山 大徳寺(京都市北区)
境内・伽藍②

池田こみち(宗蹊) Komichi Ikeda監修  青山貞一 Teiichi Aoyama編集
立系メディア
E-wave Tokyo 2023年9月1日公開
 

方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
出典:MrToshi Fujiwara グーグルストリートビュー


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境内・伽藍 2


出典:世界遺産と国宝の旅の地図 in 関西 池田こみちが漢字をすべて見やすい活字に変更


・方丈(国宝)


- 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる日本様式の建物である。

 方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。

通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。

 玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。


唐門


唐門(国宝)


唐門(国宝)   出典:MY SR .ストリートビュー

 唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。

 なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。

 ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。


・方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。


方丈    出典: Mr.Toshi Fujiwaraグーグルストリートビュー


・茶室「起龍軒」


・侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。


侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立    出典: Mr.Toshi Fujiwaraグーグルストリートビュー

大徳寺侍真寮
出典:https://kyototravel.info/ditokujijishinryou

 ・大徳寺侍真寮は1909年(明治42年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
 ・大徳寺侍真寮は室町時代後期(1467年~1572年)に建立されました。侍真寮は後継住持(じゅうじ)の居室です。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。一般的に侍真寮は方丈(ほうじょう)に設けられます。方丈では上間の奥が住持の間、下間の奥が侍者(じしゃ)の間があり、住持が亡くなると住持の間が衣鉢(いはつ)の間、侍者の間が後継住持の侍真寮になります。


・近衛家墓所

 近衛家の墓所は歴史の重さを私たちに示している。 五摂家筆頭の家柄の墓は、私たち一般庶民の墓のスタイルとは同一視できない規模だ。 約三百坪ぐらいの敷地を大木が囲み、入口は木の門で閉められ、他の人々を寄せつけようとはしない風情である。 中に入ると墓のスタイルは宝きょう印塔であり、しかも整然と祀られ、墓の大きさも昔から現代まできちんと統一されている。 ひとつの家訓ともいうべきか、伝統の重さが感じられる。
出典:著名人のお墓


・鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。

 
鐘楼は法堂の東側に位置している。1583年(天正11年)に建立された。鐘楼は袴腰付きで、屋根が入母屋造の本瓦葺。正面・奥行が桁行三間・梁間二間となっている。


鐘楼    出典: :山脇孝之 氏   グーグルストリートビュー

・千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。


出典:  Mr.Hiroak! Yosh!da グーグルストリートビュー


・平康頼の

 康頼は平保盛(清盛の甥)の家人。1167年(仁安元年)、目代として尾張国に赴任した折、平治の乱に敗れ、尾張国野間で最期を遂げた源義朝の墓を修理し、水田を寄進して小堂を建てて供養したことで、武士の鑑として後白河上皇に好印象を与え、上皇の近習となっている。今様を好んだ上皇の門弟だったことでも知られている。
出典:平康頼の塔~京都:大徳寺~


・山門(三門、重要文化財) -


山門       出典:Wikimedia Commons


山門      出典:Wikimedia Commons


 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。天井画の龍図は長谷川等伯の作額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。


・勅使門(重要文化財) -


勅使門      出典:Wikimedia Commons


勅使門    出典:円座厚司氏、グーグルトリートビュー


勅使門    出典: Aki o24o氏、グーグルトリートビュー

 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。


・浴室(重要文化財)


大徳寺浴室    出典: 山脇孝之氏、グーグルトリートビュー


大徳寺浴室    出典: 山脇孝之氏、グーグルトリートビュー

- 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。


・南門


南門    出典: 小山茂樹氏、グーグルトリートビュー


・梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。


総門


門    出典:Nr. tadashi kawata、グーグルルトリートビュー


・大徳寺茶所


大徳寺茶所    出典: あとり氏、グーグルトリートビュー


宗務本所   撮影:池田宗蹊(池田こみち)



庫裏そばの山形美智子氏  撮影:池田宗蹊(池田こみち)


境内伽藍②終わり

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