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目眩く歴史の要所で「茶の湯」など稀有な文化が偲ばれる


龍寶山 大徳寺 (京都市北区)
大徳寺全塔頭

池田こみち(宗蹊) Komichi Ikeda監修  青山貞一 Teiichi Aoyama編集
立系メディア
E-wave Tokyo 2023年9月1日公開


大徳寺の大仙院  出典:グーグルマップストリートビュー360度カメラ

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はじめに 歴史 境内・伽藍1 境内・伽藍2 文化財1 文化財2 全塔頭 龍源院 瑞峯院 大仙院 高桐院  聚光院  龍光院  三玄院 黄梅院 玉林院  興臨院  孤篷庵 真珠庵 龍翔寺 芳春院 大光院  総見院  大慈院 その他 江岑宗左三百五十年忌記念大徳寺茶会  本文脚注・参考文献

・塔頭
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  ※注:塔頭(たっちゅう)
  塔頭は寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹
  に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院を指す。



出典:世界遺産と国宝の旅の地図 in 関西 池田こみちが漢字をすべて見やすい活字に変更


大徳寺の塔頭  出典:大徳寺の塔頭 Weblio辞書

 大徳寺は塔頭24を有する[5]。2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。

芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。明治11年高林庵と合併[2]。

龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、昭和33年(1958年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会日本支部を設立し、庵を復興。

如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは昭和48年(1973年)に再興されたもの。

大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。

真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。

聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。

総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。明治11年大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。

龍翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。明治11年養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、大正14年(1925年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。

来光寺 ー 門外塔頭のひとつ。 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。 明治11年に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。出典:Weblio辞書

瑞雲軒

三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。明治11年清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。

正受院 - 里村紹巴の墓がある。

興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は日本で最初のものといわれる。

瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。出典:Weblio辞書

大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。

龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の
大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。出典:Weblio辞書

黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。明治11年昌林庵と合併[2]。

徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。

養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。

高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。明治11年泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。

玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。

大徳寺保育園

龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。明治11年寸松庵・看松庵と合併[2]。

大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。明治11年清源庵と合併[2]。

雲林院 - 境内の外、南側にある。 雲林院 - 境内の外、南側にある。 829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残
る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。出典:Weblio辞書

孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。

旧塔頭

松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、明治11年に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。

天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。

金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。明治11年龍源院へ合併[2]。

大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。明治11年三玄院へ合併[2]。


全塔頭 終わり

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