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●2010年2月20日(土) ヴィル門から旧市街・歴史地区に入る
ターリン市の紋章
下は夏のターリンを上空から撮影した写真。まさに中世の雰囲気、空気だけでなくバルト海に臨む中世のターリンそのものが今なお残っている。
手前の塔が上の地図の左下のトームペア城、その右がアレクサンドル・ネフスキー教会である。
エストニアの首都ターリン(写真の季節は夏)
出典:Tallinn This Weelk 2010.Jan-Feb Vol.21 No.1
■エストニアの首都ターリン(Tallinn)とは
ターリンはバルト海(フィンランド湾)に面するエストニア共和国の首都。
旧称はレバル(Reval:ドイツ語・デンマーク語表記)、ロシア帝国統治時代の名はレーヴェリ(Ревель:ロシア語表記)である。
人口は約40万。市街が世界遺産『ターリン歴史地区』に指定されている。
ターリンは来年、2011年の欧州文化首都になることが決定している。ちなみに2009年の欧州首都はリトアニアのヴィリニュスであった。
エストニアの首都ターリン(写真の季節は春) 出典:Wikipedeia
■ターリンの歴史
1050年に、トームペアに最初の要塞が建設される。
だがドイツ十字軍騎士団のバルト地方での活動が活発化すると、これに呼応したデンマーク王によって1219年に砦は占領され、トームペアの丘の上に城が築かれれた。
13世紀初頭には、ドイツ騎士団とデンマーク王らによる北方十字軍により、ロシアとスカンジナビア結ぶ軍事戦略地点として大いに着目される。またノヴゴロドと西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築く。
1219年、デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて侵攻し、ここにトームペア城を築いた(ターリンとはエストニア語で「デンマーク人の都市」という意味である)。
エストニア人はこれを”Taani Linn(デンマーク人の城、まち)”と呼ぶようになり、これが現在のターリン(Tallinn)のまちの名の由来となったとされている。
その後、ドイツ人の入植が活発化し、13世紀の後半にはドイツ名のレヴァル(Reval)で1285年ハンザ同盟に加盟した。ハンザ同盟都市としては最北に位置する。1346年デンマークはバルト海東海岸地域の植民地を銀貨13,000マルクでドイツ騎士団に売却し引き上げた。
ロシアとの貿易の中継点としてターリンは活気を呈することになる。ターリンは今に残る”生きた博物館”と呼ばれるが、これはターリンが一番栄え豊かだったこの時代の蓄積に負うところが大きい。
これ以降、20世紀になるまでドイツ人の影響が残る。しかし1561年、ドイツ騎士団は解体し、1583年、エストニア(エストラント)はスウェーデンに割譲され、その後、現エストニアのリヴォニア北部も支配下に入る。
16世紀のリヴォニア戦争で商業都市としてのターリンの繁栄は終結する。スウェーデン、ロシアと続くエストニア、ターリン占領、支配の時代には、ターリンは要塞都市としての性格を強めることになる。さらにソ連によるエストニアの占領は50年も継続することになる。この辺はラトヴィア、リトアニアの歴史と類似している。
その後1710年、大北方戦争によりロシア帝国の支配下に入った。
1918年にエストニアが独立するとその首都となった。しかしその後ドイツ帝国の軍事占領を受ける。ソ連との戦争を経て、1920年、タルトゥ条約で、独立が承認される。
第二次世界大戦初期の1940年、ソ連の軍事占領を受け、1941年から1944年の間は、ナチス・ドイツの占領下にあった。ナチス・ドイツの撤収後は、ソ連が再侵攻し、ソ連領とされる。
1980年代後半、ソ連の崩壊の兆しとともに独立の気運が高まり、1988年、ターリン近郊の「歌の原」に約30万人(当時エストニア全土の人口は約150万人)が集い、ソ連により禁止されていたエストニアの民謡などを歌う事件があった。
これによりますます独立の気運は高まり、1989年にはターリン、リガ、ヴィリニュスのバルト三国の3都市を「人間の鎖」で結ぶ運動に100万人が参加した。
1991年、バルト3国の一貫としてエストニアが独立を回復した。このことからエストニアの独立は「歌による革命」とも言われることがある。
ターリンにはソ連統治の社会主義時代の暗く陰鬱な面影は今はない。EUに加盟したエストニアの首都、ターリンのまちは、かつて中世のハンザ都市の活気を復活させるべくがんばっている。
■ターリン市概況
国 | エストニア |
---|---|
県 | ハリュ県 |
面積 | |
- 計 | 159.2 km2 |
標高 | 44 m (144 ft) |
人口 (2009年) | |
- 計 | 404,005人 |
- 人口密度 | 2,506.9人/km2 (6,492.8人/mi2) |
ウェブサイト: www.tallinn.ee |
■ターリン市の人口構成
ターリンの人口は400,911人(2007年)でエストニアの人口の約1/3がターリンに集中している。市の民族構成は以下の通りである。
- エストニア人 - 54.9%
- ロシア人 - 36.5%
- ウクライナ人 - 3.6%
- ベラルーシ人 - 1.9%
- フィンランド人 - 0.9%
- その他(ドイツ系など) - 3.1%
■ターリン旧市街、歴史地区
ターリン旧市街は、ラトヴィアのリーガ、リトアニアのヴィリニュス同様、世界遺産の文化遺産に登録されている。ターリンの旧市街は、他の2都市の城壁がほとんど破壊されているのに対し、下の地図で分かるように今なお、旧市街全体が城壁で囲まれている。
これは歴史にもあるようにターリンが強固な要塞都市として存在したことの証でもある。
ターリン旧市街、歴史地区全図 作成:青山貞一
下の写真は1890年のターリン旧市街の写真。
1890−1900年のターリン旧市街
出典:Wikipedei English Edition
1908年のターリン旧市街
ターリン歴史地区 ターリンは1219年以来デーン人によって建設され、1346年ドイツ系ドイツ騎士団、1583年スウェーデン、1710年ロシア帝国と支配者が交代した。 旧市街にはトームペア城を始め、大聖堂、聖霊教会、聖ニコラス教会、アレクサンドル・ネフスキー教会、城壁などが残る。 |
今回の現地視察では、エストニアの首都ターリン滞在中、以下の教会,広場、博物館などを訪問した。
・ヴィル門、城壁
・旧市庁舎
・ラエコヤ広場
・ターリン大聖堂((トームキリク)
・ターリン市博物館(有料)
・聖ニコラス教会
・アレクサンドル・ネフスキー聖堂
・トームペア城
・キリスト教変容教会
・ウクライナ・カトリック教会
・聖オレフ教会
・ふとっちょマルガリータ
・聖ヨハネ教会
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition