バチカン博物(Musei Vaticani)
サンピエトロ大聖堂(Basillica San Pietorro)
サンピエトロ大聖堂の参道(Via Della Concillazione)
テヴェレ川河畔(Fuime Tevere)
サンタンジェロ城(Castel Sant' Angelo)
サンタンジェロ城橋(Ponte Sant' Angelo)
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ここではバチカン博物館(美術館)に展示されている主な絵画や彫刻について見て行こう。
■バチカン博物館(ラファエロの間)
バチカン博物館(美術館)のひとつの目玉展示は、なんと言ってもラファエッロの間など、ラファエロやその弟子の美術作品である。
ラファエッロの間は「ボルゴの火災の間」「署名の間」「ヘリオドロスの間」「コンスタンティヌスの間」から成る。
これらの部屋にはユリウス2世(既出)の命でラファエッロが1508年−1524年にかけて壁画を制作した。「署名の間」の『アテナイの学堂』はラファエッロのと言うよりは西洋古典絵画のもっとも著名な作品の一つであろう。
以下、とくとラファエロの作品をご覧頂きたい。
下は「署名の間」にあるラファエロの超有名(笑い)な「アテナイの学堂」(School of Athens)である。
ラファエロの『アテナイの学堂』(School of Athens、1508-11年)
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10
アテナイの学堂(Scuola di Atene,The School of Athens)
ルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。
描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず「署名の間」と呼ばれる部屋から着手することにした。
そして『聖体の論議』を仕上げ2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したものと言えよう
。
参照:Wikipedia
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以下はラフェエロの部屋にある『ボルゴの火事』(Fire in the Borgo)。
ラフェエロの『ボルゴの火事』(Fire in the Borgo)
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10
以下はコンスタンティヌスの間にある「ミルヴィオ橋の戦い」である。ラファエロの死後、ジュリオ・ロマーノなどラファエロの弟子たちが描いたのものである。
ラフェエロの部屋にある『ミルヴィオ橋の戦い』
Battle of Constantine against Maxentius
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10
ミルヴィオ橋の戦い(Battle of Constantine against Maxentius)
コンスタンティヌスはローマ近郊のミルヴィオ橋での戦いで突如、天に浮かぶ十字架と「これによって征服せよ」という文字を見て、十字架の旗印のもとに宿敵マクセンティウスを破った、と言われている。このミルヴィオ橋の勝利によってコンスタンティヌス自身がキリスト教に改宗することになる。その後「ミラノ勅令」でキリスト教徒に特権を認められ、ローマ帝国によるキリスト教迫害の歴史はここで終わる。キリスト教徒はその後、ローマ帝国内で強めていく。 |
下はラファエロの間の全容。壁だけでなく、天井にも秀作がびっしりと描かれている。これにはびっくりだ。左下に「ミルヴィオ橋の戦い」がある。
ラファエロ(Raffaello Sanzio)ら
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10
ラファエロ(Raffaello Sanzio)の天井画
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10
ラファエロ・サンティ
(Raffaello Santi, 1483年4月6日 - 1520年4月6日)
1483年、宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの子としてウルビーノに生まれ、父親から絵画の教育を受けた。ジョルジョ・ヴァザーリによれば、幼少期にペルージャのピエトロ・ペルジーノに師事したことになっているが、ペルジーノに大きな影響を受けたのは事実であるものの、今日ではこの逸話は否定されている。
1501年に、チッタ・ディ・カステッロのサン・タゴスティーノ教会祭壇画(今日では断片のみが残る)を完成させ、1504年にはアルビッツィーニ家の発注による『聖母の結婚』を作成した。この頃の作品としては、ほかに『騎士の幻想』などがある。これらの作品はペルジーノの作風を残してはいるものの、すでにそれを完全に超越している。
1504年、ラファエロはフィレンツェに拠点を移し、ペルージャやウルビーノに滞在して作品を残した。フィレンツェ滞在中に、『マッダレーナ・ドーニの肖像』、1507年には『美しき女教師』、1508年にはサント・スピリト教会の『天蓋の聖母』を作成した。この頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式を吸収し、フラ・バルトロメオの影響を受けて力強く堂々としたものに変化していた。
ドナト・ブラマンテの勧めで1508年にローマを訪れたラファエロは、教皇ユリウス2世に雇われ、1509年からバチカン宮殿の署名の間(特に有名なものとしてフラスコ画『アテナイの学堂』が挙げられる)、ヘリオドロスの間を手がけた。彼は、ローマで自らの様式を開花させ、1512年頃と推測される『サン・シストの聖母』をはじめとする傑作を数多く作成した。
また、同時期にサン・エリジオ・デッリ・オレフェチ教会の設計を行い、建築家としての経歴もスタートさせている。1512年にはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂、1515年にはパラッツォ・ブレッシャーノ・コスタ、1517年にはパラッツォ・パンドルフィニの設計に携わった。
彼は、従順で仕事をそつなくこなしたので多くのパトロンを持ち、1512年には、ユリウス2世の『肖像』、銀行家キージ家の依頼で『ガラテイアの勝利』、1517年には教皇レオ10世とジュリオ・デ・メディチ枢機卿、ルイージ・ディ・ロッシ枢機卿の『肖像』を仕上げた。
1514年、ブラマンテの死によって、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしたが、1520年、誕生日でもある日、37歳の若さで亡くなった。
ヴァザーリは性愛の楽しみが過ぎたためだ、と書き残している。永らく熱病による死とされていたが近年の研究では性感染症によるとの説も出ている。墓は、パンテオンにある。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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下は、Pinacotecaの間にある有名なラファエロ(Raffaello Sanzio)によるキリストの変容(Trasfigurazione)(1518-20年)。
ラファエロ(Raffaello Sanzio)による
キリストの変容(Trasfigurazione)(1518-20年)
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 以下はバチカン市国発行の切手に見る『キリストの変容』
バチカン市国発行の切手に見る『キリストの変容』
『キリストの変容』(Trasfigurazione)
マタイ17、マルコ9、ルカ9
イエスが死と復活を予告した六日〜八日後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登って祈った。祈っているうちにイエスの顔の様子が変わり、服が白く輝きだした。旧約の聖者モーセとエリヤが現れイエスと語り合っている。弟子たちが驚いていると光輝く雲が彼らを覆った。雲の中から、「これは私の愛する子、わたしの心に適うもの。これに聞け。」という声がした。
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つづく
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