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@ローマ歴史地区とその魅力
12時間短訪 -2008.2.20-
Rome Histric District and its Attractivness in Italy@

青山貞一 Teiichi Aoyama
2008年6月2日 2009年1月20日転載禁

       青山貞一 ローマ短紀行 内容目次
@ローマ歴史地区とその魅力 Jサン・ピエトロ広場・大聖堂
A1日で回るローマ歴史地区ガイド Kサンタンジェロ城、イタリア最高裁
Bローマ歴史地区1日コース Lポポロ広場・ピンチョの丘
C共和国広場とオペラ座 Mコロッセオ
Dサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂 Nフォロ・ロマーノ
Eサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会 Oマルケス劇場
Fバチカン博物館(美術館) Pアンジェンティーナ遺跡広場
Gバチカン博物館(ラファエロ) Qパンテオン
Hバチカン博物館(フォルリのフラスコ画) Rトレビの泉
Iバチカン博物館(システィーナ礼拝堂) Sスペイン広場

ローマの魅力

 筆者は研究や現地調査でEU、欧州各国によくでかけている。イタリアにもいっている。だが、なぜかローマには一度も行っていなかった。

 ローマは、「一日にしてならず」、とか「すべての道はローマに通ずる」などいう。世界史に栄華の歴史を刻んだローマ帝国だが、そのローマは、歴史、文化についてh古代ローマから現在に至るまで、現代人にさまざまな意味で、教訓を与え続けていると思う。

 その教訓の最大のものが何かと言えば、おそらく日本の「おごる平家は久しからずや」とでもいうべきものではないだろうか。

 その小生にローマに行くきっかけを与えてくれたのは、2008年の正月にBSハイビジョンで見た次の2つの番組であった。

 ひとつは、紀元前、膨張、拡大するローマ帝国に敢然と挑んだカルタゴの武将、ハンニバルに焦点を当てた「ローマ帝国に挑んだ男〜天才軍師ハンニバル」という番組だ。

 そしてもうひとつは、拡大の一途をたどるローマ帝国の前線各地を自分の足で歩き、ローマ帝国の没落の可能性を予測した天才皇帝、ハドリアヌスに焦点を当てた「ローマ皇帝の歩いた道〜末路をみつめたハドリアヌス」である。 

 以下はハンニバルとハドリアヌスについて書いた小生のブログである。

◆青山貞一:ローマ帝国に挑んだ男〜天才軍師ハンニバル

◆青山貞一:ローマ皇帝の歩いた道〜末路を見つめたハドリアヌス 
 
 ローマ帝国に関連する世界史で、たえず個性的で天才的戦略家とされてきたハンニバルやハドリアヌスをいろいろ調べて行くうちに、どうしてもローマ帝国の拠点である「ローマ」に行ってみたい衝動にかられるようになった。

 とはいえ、ローマは西欧人の精神文化の一大拠点、キリスト教、なかんづくカソリックの総本山、バチカンが永年そびえ立つ地域でもある。ローマに接するには、この視点、すなわち西欧の精神文化史、宗教史の視点がどうしても不可欠となる。

 そんなとき、やはりBSハイビジョンで出会った番組だ。

 チェコのプラハ城とヤン・フスそして初代チェコ大統領のマサリクの生涯を描いたハイビジョン特集城:王たちの物語 プラハ城である。この番組も本当に秀逸であった。

 実はこのプラハ城についてもハンニバル、ハドリアヌス同様、ブログを書き始めたのだが、文献調査に没頭するあまり、残念ながら未だブログがまとまっていない。

 城:王たちの物語 プラハ城は、まさにヴァチカンのサン・ピエトル大聖堂に象徴されるカソリックに反旗を翻したボヘミヤのヤン・フス、そしてヤン・フスが切り開いた精神哲学、文化を継承し、チェコの初代大統領となったマサリクの物語である。 

 宗教が政治的権力と統合、融合し、さらに利権をほしいままにしたとき、世界や市民がどうなるかを余すところ無く伝えていた。

 ちなみに、ヤン・フスは、ローマカソリックが堕落し、聖書ではなく権威的な教会主義と施設主義(今でいうハコモノ主義)に陥り、信者、市民からカネを集めるために「免罪符」を発行することに激しく抗議した。


コンスタンツ公会議で有罪にされるヤン・フス(右端)
Hus at the Council of Constance
Sourece From Wikipedia, the free encyclopedia

 その結果、1411年に破門され、さらにコンスタンツ公会議によって有罪とされ、杭にかけられて火炙りにされた。 ちなみに、現在のチェコ国の標語は: Pravda vit?zi、真実は勝つである。

 ※実は、その後、以下の「プラハ城のすべて」という長編ブログを書いてしまった。お時間がある方はご一読いただきたい。   

青山貞一:プラハ城のすべて @世界史とグーグルアース
青山貞一:プラハ城のすべて Aチェコ・プラハの歴史
青山貞一:プラハ城のすべて Bヤン・フスについて
青山貞一:プラハ城のすべて Cプラハ城に入る
青山貞一:プラハ城のすべて Dプラハ城に歴史
青山貞一:プラハ城のすべて Eプラハ城の建築
青山貞一:プラハ城のすべて Fヴァルタヴァ川とカレル橋


◆ローマの歴史年表


ローマ歴史地区とは

 ところでイタリアには世界遺産がたくさんある。 その数は優に40を超えている。当然世界一である。

 にもかかわらず、ことローマには
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura) が1980年、文化遺産として登録されているに過ぎない。

 本来、ローマにある歴史的建造物、建築物、場所は、それぞれひとつひとつが世界遺産として登録される価値あるはずのものだが、ローマにはあまりにも価値あるものが多いため、多いため一括して「ローマ歴史地区」として登録されたのであろう。


ローマ歴史地区の象徴的存在、コロッセオ

 下は、Wikipediaにみるローマ歴史地区とローマの起源についての簡単な説明だ。
 
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

 イタリアのローマおよびバチカン市国にあるユネスコの世界遺産の登録物件名。登録は、1980年。1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されている。

 ヴェネツィア広場を中心としたエリアが登録されている。またやはり世界遺産に登録されているバチカン市国 (世界遺産)とも隣接し、こちらと一体となった保全活動が実施されてもいる。

ローマの起源

 伝説によると、王の命により双子のロムルスとレムスの兄弟はテヴェレ川に流され、そこで狼に拾われて育てられた。そのロムロスがパラティーノの丘にローマを築いたという。

 実際には、紀元前7世紀ごろにサビニ人、ラテン人がローマを築いた。その後、現在まで都市として機能しつづけており、都市の中の都市とローマが呼ばれる所以である。

 下はフォロ・ロマーノ。いずれにせよローマというまちには人類数千年規模の歴史と文化が缶詰のように凝縮して存在している。世界好きの小生にとって一度は訪れなければならい場所であった。


ローマ帝国の政治・宗教の中心地、フォロ・ロマーノ
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

つづく