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毎年、ゴールデンウィークや夏休みにでかけている群馬県北軽井沢にある研究所の別荘だが、昨年は3.11の関係で4月から12月まで被災地に頻繁に現地調査を行うこととなり、夏休みに一度だけ出かけるだけだった。 今年も例年でかけているゴールデンウィークに行けなかったが、夏休み中の2012年8月17日夜、以下のメンバーで北軽井沢別荘に夜に東京を出発し深夜に現地に到着した。 参加メンバー 青山 貞一 環境行政改革フォーラム代表、環境総合研究所顧問 池田こみち 環境行政改革フォーラム副代表、環境総合研究所顧問 鷹取 敦 環境行政改革フォーラム事務局長、環境総合研究所代表 奈須 りえ 東京都大田区議会議員 北澤 潤子 東京都大田区議会議員 群馬県の北軽井沢は、長野県にあるいわゆる軽井沢地区よりも標高が200−300mも高い1200mの浅間高原の真ん中にあり、軽井沢よりもさらに2から3℃も低く、東京よりも10℃から15℃も気温が低く、湿度も格段に低いため真夏でも非常に快適である。明け方は15℃前後となることもあり、寒いくらいである。 翌8月18日土曜日は、天気予報では雨が70%とされていたものの、現地は朝から夕方まで快晴、夕方になって少し雨が降った程度であった。ちなみに今回は、20日まで滞在するが、19日以降は天気予報でも快晴となっていた。 ●浅間山大噴火と鎌原神社 18日は起床、朝食後、近くの鎌原観音に全員でお参りした。 鎌原観音は、天明年間(1781年から1788年までの期間)に浅間山が大爆発し、溶岩や土石流が北側にある吾妻川まで流出した際、鎌原村の村民が高台にあるこの鎌原観音に走って逃げ込み、命が助かったと伝えられている。 2004年10月14日噴火のとき撮影した写真 撮影:重田学氏 鎌原観音の「階段」 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 浅間山の大噴火は、天明3年7月6日に起こった。死者が約2万人、折からの天明の大飢饉がこの大噴火で更に深刻化したと言い伝えられている。 今回は時間の関係で訪問しなかったが、鎌原観音の隣には、下の写真にある郷土資料館があり、天明の浅間山大噴火と鎌原村についての貴重な文物が展示されている。 嬬恋村郷土資料館 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5 天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村 上側にあるのが浅間山。下側が鎌原村。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5 出典:鎌原村郷土資料館 天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村 上側にあるのが浅間山。下側が鎌原村。 出典:鎌原村郷土資料館 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5
浅間山大噴火の被害については、群馬県指定文化財のなかに以下のような記述もある。
以下は2009年のゴールデンウィーク時に撮影した鎌原観音である。
3.11の巨大津波発生時も、高台にある神社に逃げ込んだ住民が助かった現場をたくさんで見てきたが、火山爆発でも同じようなことが200年以上前にあったことになる。 この観音には、火砕流に追われ観音に逃げ込んだ村民の中で、母親をおんぶし階段を上ろうとし、途中で息が絶えた親子の遺骨の以下の写真が展示されている。 詳しくは隣にある郷土資料館に資料や写真がある。 火砕流に追われ観音に逃げ込んだ村民の中で、 母親をおんぶし階段を上ろうとし、途中で息が絶えた親子の遺骨 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 上記親子それぞれの顔型。現在ならDNA鑑定すれば 親子であるかがどうかがすぐに分かるだろう。 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 鎌原観音にて 左から北澤さん、奈須さん、池田さん 撮影:鷹取敦 Digital Camera CASIO EX-H20G 8月18日朝にお参りした鎌原観音には、多くの参拝客がいて、お年寄りの説明に聞き入っていた。 鎌原観音の階段にて 池田こみちさん 撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 鎌原観音のお堂の隣には、かやぶき屋根の小屋がしつらえられている。そこには毎日、地元のお年寄りが朝からお昼過ぎまで詰めていて、お参りする人々に御茶やおつけものを用意している。 おつけものは鎌原キュウリや高原キャベツの塩漬け、タクアンなどだが、とても美味しいので、いつも楽しみに頂いている。御茶を飲みながら、お年寄りとしばし談笑。いろいろなお話しを聞くことが出来る。 鎌原観音で資料を頒布する地元のひと 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5 ガスの設備がないため、一年中囲炉裏に火を絶やさない。お陰で、小屋の天井は真っ黒にすすけて黒光りしているが、すすで燻されているので虫がわくこともなく、茅葺きの屋根には草や木も生えていない。 一方、観音堂の茅葺き屋根には、たくさんの草や実生のちいさな木が生えていた。「日本のポンペイ」(以下参照)の遺跡は、地元のお年寄りたちによって大切に守られている。
つづく |