●岩手県宮古市田老地区(11月18日〜19日:新規調査)
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田老
11/19
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出典:マピオンをベースに作成
●岩手県宮古市田老地区
2011年8月下旬の前回調査(第一次調査)では、北は岩手県の大槌町から南は宮城県との県境の陸前高田市までを調査した。
今回は2011年11月18日〜11月20日の3日間、大槌町の北にある山田町から宮古市、宮古市田老町、岩泉町、田野畑村、普代村、野田村、久慈市を中心に現地調査を行った。
調査2日目の11月19日、私たちは宮古市中心市街地から調査を開始し、最終的に久慈市まで到着した。しかし、この時期は日が短く午後4時過ぎに日没となってしまい、青森県との県境にある岩手県洋野町には残念ながら行けなかった。
下は、東北地方太平洋沖地震に伴い発生した津波によって甚大な被害を受けた田老地区で、観光ホテル付近の瓦礫を捜索する日本の救難捜索隊。アメリカ合衆国海兵隊による2011年3月15日の航空写真。
甚大な被害を受けた宮古市田老地区で、観光ホテル付近の
瓦礫を捜索する日本の救難捜索隊
出典:Wikipeia
◆田老地区の津波との闘いの歴史
以下はWikipdeiaの記述を元にした田老地区の津波との闘いの歴史である。
現在の宮古市田老地区は、「津波太郎(田老)」の異名をつけられるほど古来より津波被害が多く、古くは江戸時代初期の慶長年間(慶長の大津波:1611年)にも村がほとんど全滅したとの記録がある。
明治29年の明治三陸津波では、県の記録によると田老村(当時)の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%の1867人が死亡したとある。生存者は出漁中の漁民や山仕事をしていた者がほとんどであった。
津波後、村では震災義捐金で危険地帯にある全集落を移動することにした。しかし工事にかかったところで、義援金を村民に分配しないで工事に当てることの是非や工事の実効性に村民から異論続出し移転計画は中断を余儀なくされた。そして結局、元の危険地帯に再び集落が作られた。
1933年(昭和8年)の昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、またしても三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。
東大教授・今村明恒博士ら学者の助言に基づいて当時の内務省と県当局がとりまとめた復興策の基本は集落の高所移転、すなわち「今次並びに明治二十九年に於ける浸水線以上の高所に住宅を移転」することであり、また移転のための低利の宅地造成資金貸付などの措置もとられた。
田老は当時としては規模の大きな村で、全村移転は敷地確保が難しく、周囲に適当な高台もなかった。海岸から離れては主要産業の漁業が困難になるという問題もあった。そこで当時の村長・関口松太郎以下、村当局が考え出した復興案は高所移転ではなく、防潮堤建造を中心にした計画であった。費用は大蔵省から被災地高所移転の宅地造成貸付資金を借入して防潮堤工事に充てることとした。
宮古市田老地区における2つの防波堤の間、輪中地区
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
第一期工事は1934年(昭和9年)に開始された。高台移転案を基本とし、当初は難色を示した国と県も交渉の結果費用負担に同意し、2年目からは全面的に国と県が工費を負担する公共事業になり、建設は順調に進むかと思われた。しかし日中戦争の拡大に伴い資金や資材が枯渇、昭和15年には工事が中断する。
戦後、町をあげて関係官庁への陳情を繰り返した結果、昭和29年に14年ぶりに工事が再開され、4年後の1958年(昭和33年)には工事が終了し、起工から24年を経て全長1350m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面高さ10m
という大防潮堤が完成した。その後も増築が行われ、実に起工半世紀後の昭和41年には最終的な完成を見た。総延長2433mのX字型の巨大な防潮堤が城壁のように市街を取り囲み、総工事費は80年当時の貨幣価値に換算して約50億円に上る壮大な防潮堤であった。
宮古市田老地区における防波堤の漁港側から住宅地側を見る
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
1960年(昭和35年)に襲来したチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たにもかかわらず堤防が功を奏して田老地区の被害は軽微にとどまった。これを機に防潮堤への関心が高まり、海外からも視察団がやってくるなど田老町の防潮堤は国内のみならず、世界の津波研究者の間でも注目される存在になった。
昭和三陸津波70周年に当たる2003年(平成15年)3月、町は「災禍を繰り返さないと誓い」、「津波防災の町」を宣言して記念の石碑を設置した。同地区出身の田畑ヨシによる「津波てんでんこ」の紙芝居活動をはじめとする児童への防災教育や、年一回の避難訓練にも力を入れ「防災の町」として全国的にも有名であった。その後、2005年に田老町は宮古市に編入され、消滅した。
宮古市田老地区における防波堤の住宅地側を見る
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
しかし、2011年3月11日の東日本大震災に伴い発生した津波は、午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため地区はふたたび大きな被害を蒙った。
目撃証言によると「津波の高さは、堤防の高さの倍あった」という。市街は全滅状態となり、地区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出す結果となった。「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もある。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているという。
宮古市田老地区の山側の被災状況を見る
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
本稿の出典:Wikipdeia |
◆三陸地域を襲った過去の津波
今回の調査対象となった岩手県北部など三陸海岸における過去の津波の歴史を以下にまとめる。
貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日) :
三陸沖で貞観地震が発生、これに伴う津波によって大きな被害が出た。
慶長16年10月28日(1611年12月2日) :
三陸沖で慶長三陸地震が発生、津波により甚大な被害が出た。
1896年(明治29年)6月15日 :
三陸沖で明治三陸地震が発生し、(明治三陸大津波)に襲われた
三陸海岸一帯は甚大な被害を受けた。
1933年(昭和8年)3月3日 :
三陸沖で昭和三陸地震が発生、これに伴い大津波による甚大な
被害が出た。
2011年(平成23年)3月11日 :
東日本大震災・津波発生、これに伴い大津波による甚大な
被害が出た。
●岩手県北部で最大の被害を受けた宮古市田老(たろう)地区
岩手県北部の自治体あるいは地域で最も被害が甚大であった宮古市だが、とりわけ宮古市北部の田老地区であった。2011年11月19日午前、私たちは宿泊先の宮古市の休暇村陸中宮古から国道45号線を北上し、宮古市の田老地区に向かった。
以下はグーグルマップでみた宮古市田老地区である。マウスを使用することで拡大、縮小、移動などが自由に行えるとともに、衛星画像、通常の地図、3次元立体地図、地形図などを切り替えてみることができる。
私たちは、ごく最近同地を訪れていた環境弁護士の只野靖氏から事前に宮古市に行くなら必ず田老地区を視察してほしいと連絡を受けていた。またNHKは特集などで何度もこの田老地区の被害の実態を放映していた。
国道45号線の両側に広がる漁港の町、田老地区には下の地図にあるように、昭和55年以降、地区全体にX字(あるいは卍型)の巨大な防波堤が増築されている。
以下の地図は宮古市田老地区のX字型防波堤の位置図である。図中黒色のX字が防波堤の位置である。
宮古市田老地区のX字型防波堤の位置図
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
だが、この強靱に見えるX字型の二重の防波堤があるにもかかわらず、3.11の巨大津波は、これら二重の防波堤を乗り越え背後にある国道45号線沿いの田老地区全体をのみ込み、壊滅的な被害をもたらした。
以下は過去における田老地区と津波被害の歴史である。
宮古市田老地区と津波被害の歴史
1889年(明治22年)4月1日 -
町村制が施行され、田老村・乙部村・末前村・摂待村が
合併して東閉伊郡田老村が発足。
1896年(明治29年)3月29日 -
北閉伊郡・中閉伊郡・東閉伊郡が合併して下閉伊郡が
発足。これにより東閉伊郡田老村から下閉伊郡田老村となる。
1896年(明治29年)6月15日 -
明治三陸地震で発生した高さ14.6mの
明治三陸大津波が襲い1,859名の死者を出す。
1933年(昭和8年) 3月3日 -
昭和三陸地震による大津波では911名の死者を出す。
1944年(昭和19年)4月1日 -
町制施行を敷き、田老町となる。
1958年(昭和33年)3月 -
最初の堤高10m超の防潮堤が完成。その後も増設を続ける。
1960年(昭和35年)5月24日未明 -
チリ地震による大津波が襲来したが、防潮堤が被害を
皆無に留めた。
1979年(昭和54年)長さ2,433メートル、高さ10m(海面から)の
防潮堤が完成。
2005年(平成17年)6月6日 -
宮古市、新里村と合併し、宮古市の一部となる。
2011年(平成23年)3月11日 -
東北地方太平洋沖地震による大津波で旧田老地区が
大被害を受けた。
出典:Wikipedia
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上の表より明らかなように、田老地区には、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波、そして東日本大震災による津波と、過去、5回も大津波が襲来しており、その都度、大きな人的被害を受けている。 とくに明治三陸津波では田老地区だけで1,859名が亡くなっており、昭和三陸津波でも911名もの犠牲者を出している。
そのような背景から昭和30年代から昭和54年にかけて堤高10m(海面からの高さ)規模の防潮堤を構築しており、昭和54年には総延長2,433mもの巨大防潮堤を完成させていた。
にもかかわらず、東日本大震災では、巨大津波が上記の巨大な防波堤を乗り越え、背後地の輪中地域及びその外側の住宅地をのみ込み、またしても甚大な被害をだしてしまった。
◆現地視察・調査
・防潮堤
2011年11月19日午前の現地調査では、この宮古市田老地区に多くの時間をとり、しっかり状況を把握してきた。
この田老地区は宮古市市街地の北にあり、東北地方太平洋沿岸を縦断する国道45号線がまちの真ん中を通過している。
下の写真は、田老地区のX字型防波堤の一部(半分)を写したものである。青山貞一が居る位置がX字型防潮堤のちょうど交点にあたる。防潮堤の高さはいずれもTPから10mある。
岩手県宮古市田老地区のX字型防波堤上の青山貞一
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2011.11.19
以下は宮古土木事務所が設置したプレートであるが、X字防潮堤の高さは、X字のいずれもがTPから10mあることが分かる。
X字防波堤の高さはいずれもTPから10mある
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2011.11.19
下の写真は、防潮堤を下から見たものである。池田さんが登りかけているのが防潮堤の上部に向かう階段である。
岩手県宮古市田老地区のX字型防波堤の階段上の池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
一方、下の写真は防潮堤の側面が分かるように撮影している。防潮堤の前にいるのは青山貞一である。
岩手県宮古市田老地区のX字型防波堤を背景にした青山貞一
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10 2011.11.19
現地調査では、X字型の防潮堤のうち、北側で海に面する防潮堤の大部分が破壊されていた。一方、それ以外の防潮堤は、上る手すりなどが折れ曲がったり、破壊されたものの、本体は上の写真にあるようにほぼ原形をとどめていた。ということは、何次かにわたり押し寄せた津波は上の写真の高さの防潮堤を幾度となく越えて来たということになる。
・津波被害の実態
次に、肝心な津波による被害だが、この時点では破壊され瓦礫と化した家屋、施設などがほぼ片付けられていた。
しかし、防潮堤の上で撮影した以下の動画を見ると田老地区がX字型の防潮堤内の輪中のみでなく、その背後にある住宅が高台以外、見渡す限り壊滅していることがよく分かる!
岩手県宮古市田老地区のX字型防波堤
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
破壊された自動車の仮置き場となっている防波堤と防波堤の間の「輪中」
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
下は田老地区の国道45号線沿いの破壊された住宅地の一部である。
国道45号線沿いの破壊された住宅地の一部
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
下は宮古市田老地区の被災地を北上しながら撮影した動画である。
岩手県宮古市田老地区の被災地を北上
動画撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2011.11.19
●参考データ(岩手県宮古市田老地区)
■岩手県宮古市田老地区の死亡者及び行方不明者
市町村名 |
死者数A |
行方不明者数B |
死者+行方不明者数A+B=C |
宮古市 |
420 |
124 |
544 |
■宮古市田老地区における過去の津波被害
宮古市田老地区では、明治三陸津波(1896) では波高13.64mの津波が押し寄せ、 死者が1400人(当時、田老村)、流失倒壊戸数230戸の大惨事となっている。
参考:内務大臣官房都市計画課『三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告』
◆青山・池田:三陸海岸 津波被災地現地調査 E過去の津波被害(詳細)
■津波の高さ(推定値)
今回現地調査した宮古市田老地区は、水門、道路、堤防などの破壊状況、沿岸背後地の樹木、土壌、地層などへの影響などからTPから15m以上の津波高及び最大32mの遡上高が生じたと推定される。
出典:東京大学地震研究所 都司嘉宣氏らによる「三陸南部の調査結果」
参考・東北地方太平洋沖地震津波情報
東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ
グラフィックスで見る日本沿岸の津波高
津波現地調査結果/岩手県
過去の津波情報
以下は宮古市田老地区の津波関連記事。
◆宮古市田老の津波高平均16M
(2011/11/07) 岩手日報
東北大大学院工学研究科の今村文彦教授(津波工学)は6日、宮古市田老で現地調査し、湾口の津波高は平均で海抜約16メートル(速報値)との測定結果を示した。明治三陸大津波(1896年)の同地区の最大値15メートルを上回る結果となった。
今村教授は津波の到達地点を見た同地区住民から聞き取り調査し、映像や写真で津波襲来の様子を確認。製氷貯氷施設近辺で津波が確実に到達した3カ所の津波高を測定し、平均値を算出した。
この3カ所とは別に映像から推測される津波到達地点の高さを測定したところ、暫定値で約23メートルだった。
今村教授によると、明治三陸大津波の最大値は15メートル。昭和三陸大津波(1933年)は同10メートル。今回の測定結果では、平均値で既に過去2回の最大値を上回る。
一方、今回測定した湾口北側より南側がさらに津波高が高い可能性もあるとされ、今後も最大値などを継続調査するという。今村教授は「なぜ田老は巨大津波が繰り返されるのか。少しでも疑問に答えていきたい」としている。 |
◆岩手・田老の津波は通常海面より平均16メートル上の高さ
2011.11.6 21:34 産経新聞
岩手県宮古市の田老漁港を襲った東日本大震災の津波は、海面の高さが通常よりも平均で16メートル高かったことが分かった。今村文彦東北大大学院教授(津波工学)が6日、住民からの聞き取り調査などを基に現地で測定した。
今回の津波は、過去の教訓から整備された高さ10メートルの「万里の長城」と呼ばれる防潮堤を破壊していた。
今村教授は、津波で生じる白波や水しぶきではなく、破壊力のある水の塊(海面)の高さを測定することを計画。測定前に付近住民から聞き取り調査をしたほか、9月に訪れた際の聞き取り調査の結果も踏まえ、海面の高さと判明した3地点の痕跡高を測定した結果、平均は約16メートルだった。
今村教授は「防潮堤を越えたのは2、3メートル程度かと思っていたが、倍の値で驚いた」とした上で「測定を続け、明治、昭和、平成と田老でなぜ巨大津波が繰り返されるのか探りたい」と話した。 |
◆東日本大震災 岩手県宮古市の津波は38.9mまで到達 - 東京海洋大学調べ
日本・三陸沖を震源とするマグニチュード8.8の地震、東京など各地でも揺れや津波も
2011年東北地方太平洋沖地震
読売新聞によると、3月11日の東日本大震災で、岩手県宮古市・田老(たろう)地区で、津波が37.9mの高さまで山中を駆け上がったことが、東京大学地震研究所が行った調査で明らかになった。これは今回の津波調査の中では最高値であり、1896年に起きた明治三陸大地震において記録された同県大船渡市(おおふなとし)の38.2mの日本国内最高値に匹敵する巨大津波であったことがわかった。
佐賀新聞が、同研究所の都司嘉宣(つじ・よしのぶ)准教授へインタビューしたところ「この津波は明治三陸大地震に匹敵、あるいは場所によってはそれを上回るのではないか」と分析している。
都司氏は田老地区の小堀内漁港周辺にあった漂流物を調べ、その結果海岸線から200m離れた山の斜面にまで海水に押し流された材木が届いていたことがわかり、その材木のあった場所を基準として高さを測ったところ37.9mもあった。さらにその手前には消防車や船も打ち上げられていたという。
読売によると都司氏は「まだ津波の調査は始まったばかりでさらに高いところに津波の痕跡(こんせき)が見つかる可能性がある」と話している。
2011年4月4日 出典 Wikiニュース |
つづく
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