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●2010年2月19日(金) ラトヴィア軍事博物館A
リーガ旧市街図
作成:青山貞一
以下私たちが関心を持ったいくつかのテーマについてラトヴィア軍事博物館の展示物の写真をお目に掛けたい。
博物館内部の展示の様子
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
■城壁(要塞)都市だったリーガ
現在、リーガの旧市街にはごく一部しか城壁がないが、13世紀から18世紀まではこれから行くエストニアのタリンのように、グルッと城壁で囲まれていた。下の絵(図)の数々は、それを示す”証拠”である。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
■ダウガヴァ川からみた中世(15ー17世紀)のリーガの景観
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1650年のリーガ 出典:English Wikipedia
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
16世紀半ばのリーガ 出典:English Wikipedia
■ダウガヴァ川からみた中世(15ー17世紀)のリーガの景観
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1710年のリーガ
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1701年のリーガ
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1712年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1783年のリトアニアの地図
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
■帝政ロシアによるラトヴィア人のシベリヤ抑留・流刑
3階にあるリーガ人の政治犯などがリーガから船でシベリアに抑留、強制労働、流刑などで送られた時の写真、地図、資料がある。
1919ー1920年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1920年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1929年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1918ー1920年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
写真、資料の中には、ロシアのサハリンに勤務していたラトヴィア人医師が日本人抑留者から贈られた日の丸も展示されている。
下は日本海軍の筑前丸の写真。
1920年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
■ナチスドイツによるラトヴィア・リーガの占拠・破壊
1944年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1942年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
■ナチスドイツによるラトヴィア系ユダヤ人強制連行・収容・殺害
1939年以来、ソ連はラトヴィアに赤軍を強制的に駐留させた。その直後、独ソ不可侵条約の秘密付属協定に基づき、ソ連はラトヴィアを1940年に完全に領有する。
独ソ不可侵条約もあり、バルト3国にいたドイツ人はドイツに帰国する。その後、ソ連のスターリンはラトヴィアで粛正的政策を開始する。このスターリンによる粛清により多くのラトヴィア人はシベリアに追放されたり殺害された。
このようなこともあり、1941年、ナチス・ドイツがラトヴィアを占領したときには、多くのラトヴィア人はナチス・ドイツを歓迎したという。さらに多くのラトヴィア人はナチス・ドイツの 親衛隊に加入し、ドイツのSSとともにラトヴィア国内に居住していたユダヤ人の強制連行、強制収容、そして殺害に加担している。
たとえば、ナチス・ドイツには、ラトヴィア人だけの部隊もあったほどだ。もちろん、ナチス・ドイツに抵抗する人々も沢山いた。
1944年、第二次世界大戦終了間際、ソ連は再度ラトヴィアを占領、その結果、約10万人のラトヴィア人が流刑や処刑され、ラトヴィアはラトヴィア社会主義共和国としてソビエト共和国に併合された。
以来、ラトヴィアの民族、文化、宗教、言語は抑圧されることになる。
だが、多くのラトヴィア人は戦後の混乱期に世界各地に亡命した。
ラトヴィアは他のバルト3国とともに1990年に独立を宣言し、1991年にはソ連政府により承認される。2004年5月1日、ラトヴィアは EU及び NATO に加盟した。
処刑前に裸にされるラトヴィアの女性
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
処刑前に裸にされるラトヴィアの女性
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1943年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
1941−1944年
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
上記のようにラトヴイアは1991年の冷戦構造終結、ソ連崩壊という歴史的な変動の中で、民族悲願の独立を獲得した。
ラトヴィア共和国は新興バルト3国の中央に位置する国であり、面積は6万5千平方キロメートル、人口もわずか240万人弱であるが、たくさんの湖、湿地帯、森林地帯をもち、豊かで多様な自然に恵まれている。
なお、首都リーガには国全体の人口の1/3(80万人)が集中しているが、他の人口は田園地帯と小都市に分散している。
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition