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●2010年2月19日(金) ラトヴィア占拠博物館A
リーガ旧市街図
作成:青山貞一
ラトヴィア占拠博物館に入る。
入り口で来訪者署名をする。一階は受付だけで展示は2階にある。
2階にあがるとすぐのところに、いきなりスターリンとヒットラーの大きな写真が掲示してある。やはりこのふたりがラトヴィアにとっての2大悪の枢軸ということなのだろう。
ソ連のヨシフ・スターリン
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
ナチス・ドイツのアドルフ・ヒットラー
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
上記の2人に関連し、リトアニアは1988年6月3日、ヒットラーと スターリン という2人の歴史的な独裁者に反対して市民が連携し組織を作った。 「サユディス」という組織がそれだ。
その翌年の1989年8月23日、200万人を超えるバルト3国の人々がタリン、リガ、ヴィリニュス、全長600kmにわたり手と手を繋いで行った「人間の鎖」によるデモが行われる。
この「人間の鎖」運動は世界各国に対してバルト3国の独立なくしてヨーロッパに真の自由はないという強烈なメッセージを伝達し、その後のソ連崩壊を早めたとされている。
サユディス 1980年代後半から、1990年代初めにかけて、当時ソビエト連邦の支配下にあったリトアニアの独立運動を指導した政治組織。正式名称はリトアニア改革運動。1988年6月3日設立。ヴィータウタス・ランズベルギスが指導した。当初その目標は、リトアニアの自治を確立することにあったが、後に独立要求運動に発展する。 1988年6月3日にリトアニア科学アカデミーで開かれた会合では、共産党員・非共産党員を問わず知識人たちが集まり、サユディス発起グループを形成した。このグループは35名からなり、そのうちのほとんどが芸術家であった。また、35名のうち17名が共産党員でもあった。このグループは、ゴルバチョフが推進したペレストロイカ、グラスノスチ、および民主化を支持する運動の組織化を目標としており、彼らはこれを「改革運動」と呼んだ。ここから単に「サユディス」として知られるようになった。 |
......
1990年、「サユディス」はリトアニア民主議会選挙で初めて勝利し、3月11日の独立回復宣言へと前進した。
当然のことながら、バルト3国の独立には実に多くの市民、国民の悲痛な犠牲を伴っている。
1991年1月、ソ連によるバルト3国への武力介入により、たとえばヴィリニュス市内で非武装の市民が15名犠牲となった。いわゆる1991年にヴィリニュスのテレビ塔で起きた「血の日曜日」事件だ。この事件では700名の市民が負傷した。ラトヴィアでも1991年1月に市民がソ連内務省特殊部隊による攻撃を受けている。
バルト3国では独立回復宣言から約1年後、アイスランドがようやくリトアニアを独立国家として承認、デンマークがそれに続き、1991年8月20日、ソ連における8月のクーデター失敗を契機として、他の西欧各国も独立を承認して行った。
以来、リトアニアはじめラトヴィア、エストニアは独立国家として国家的地位を確立してゆく。2004年EUおよびNATOに加盟した。
ちなみにラトヴィアは1990年5月4日に独立宣言、1991年8月21日に完全独立を果たした。エストニアは1991年8月20日に独立宣言、9月6日に承認を得ている。
ここでは、最初にラトヴィアで2大「悪の枢軸」と目されるスターリンとヒットラーについて概要を示そう。
■ヨシフ・スターリン 分離主義、ソ連の支配に対する抵抗、侵攻してきたナチス・ドイツへの協力が、良かれ悪しかれ追放の表向きの理由として挙げられた。ドイツ人が占有する領域で過ごす人々の個々の事情は調べられることはなかった。 ナチスによる短期間のカフカース占領後、山岳民族とクリミア・タタール人の全住民 計100万人以上もの人々 が、自分たちの財産没収の通知も機会も得ることなく追放された。 大半の人々が赤軍により一箇所に集められて行進させられ、家畜同然に輸送列車に乗せられた。老人や障害者など足手纏いになると見なされた者は射殺されたり、崖から突き落された。 チェチェン共和国のハイバフ村では、輸送の期間に間に合わせる口実でNKVDが住民700人をコルホーズの馬屋に閉じ込めて火を放って焼き殺し、さらには耐え切れずに這いだしてきた村人を射殺する事件がおきている。 ある概算によると、移住させられた人間の43パーセントが感染症と栄養失調で死んだという。 スターリン統治の間、以下の民族集団は徹底的にあるいは部分的に強制移住させられた。 ウクライナ人、ソ連内の少数派のポーランド人(en:Polish minority in Soviet Union)、朝鮮人、ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、カルムイク人、チェチェン人、イングーシ人、en:Balkars、カラチャイ人、メスヘティア・トルコ人、フィンランド人、ブルガリア人、ギリシャ人、 人、リトアニア人、エストニア人、そしてユダヤ人である。 国籍を問わず、彼らの富農の多数がシベリアや中央アジアへ住まわされた。その途中で何十万人もの被追放者たちが死んでいき、生き残った人々は強制収容所内で無報酬で働かされ、追放された者たちの多くは飢餓や別の状況によって死んでいった。 1956年2月、ニキータ・フルシチョフは「国外追放はレーニニズムに違反する」と非難し、無効にしたが、タタール人、メスヘティア人そしてヴォルガ・ドイツ人が「大挙して」祖国へ帰還するのは1991年まで許されなかった。 追放は、ソ連国民に深刻な影響を及ぼした。追放の記憶は、ソ連崩壊から現在に至るバルト三国、タタールスタン共和国、チェチェン共和国の大部分で発生している分離・独立運動に深く関わっている。 参照:Wikipedia |
■アドルフ・ヒトラー(独: Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日) ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げる。 1933年首相となり、1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首となる。軍事力による領土拡張を進めた末に1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。 ドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕内で自殺。合法的な選挙により勢力を拡大したが、後には指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため独裁者の典型とされる。 1941年12月、閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。 1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づけるヴァンゼー会議が行われた。しかしながら、文章上では絶滅や殺害と言った直接的な語句は使われず、追放や移民と言った語句が最後まで使用された。 1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説した。 暗殺未遂事件現場をムッソリーニと訪れたヒトラー(1944年7月)その後、開戦から3年目に入った1942年には、再び東部戦線と北アフリカでドイツ軍は攻勢に転じたが、やがて、東部戦線でのスターリングラード攻防戦やアフリカ戦線でのエル・アラメインの戦いなどでの敗北により、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなり、1943年には東部戦線でのドイツ軍の最後の大攻勢であるクルスクの戦いでの攻勢失敗や、枢軸国の一員であったイタリア王国のバドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれた。 ヒトラーは大戦末期は総統大本営「狼の巣」と名づけた地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発による奇跡の大逆転を望む日々を過ごした。 1944年には、ノルマンディー上陸作戦の成功による西部での第二戦線の確立と、東部戦線でのソ連の大攻勢(バグラチオン作戦による中央軍集団の壊滅)などにより、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。 参照:Wikipedia |
下は1939年時点におけるラトヴィア国内におけるソ連の赤軍の軍事的占拠状況を示す地図。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
下は占拠によるリーガの町の破壊を示す写真。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 19 Feb. 2010
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition