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真田の里、上州沼田

沼田における真田の興亡

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

September 25 2015
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真田の里、上州沼田 2015-9-20
@ 沼田市の概要   E 歓楽院   J 沼田公園・沼田城跡   O 旧生方家住宅2
A 美しい河岸段丘   F 三光院   K 沼田城の詳細   P 旧生方家住宅3
B 真田の興亡   G 法城院・小沢城跡   L 沼田城跡視察   Q 旧土岐家洋館1
C 真田藩の概略   H 妙光寺   M 鐘楼と平八石   R 旧土岐家洋館2
D 天桂寺   I 正覚寺   N 旧生方家住宅1   S 戸鹿野八幡宮
21 迦葉山弥勒寺

 まず、沼田市の概要を沼田氏、真田氏との関連で解説します。

◆沼田市の概要: 

 沼田市周辺は平安時代末期から沼田氏の本拠だった地域です。

 当初は荘田城を居城としましたが8代景朝の代に小沢城に移り、天文元年(1532)から沼田城に移ります。

 永禄12年(1569)に沼田氏の内紛に乗じ上杉氏が沼田領を支配しますが、上杉謙信が死去すると上杉家も後継ぎ争いが生じ小田原北条氏が占拠します。

 天正8年(1580)に真田昌幸が沼田に侵攻し制圧後豊臣秀吉の仲裁により名胡桃城以南の沼田地域を北条方に譲渡しますが天正18年、沼田城主で北条家家臣猪俣邦憲が名胡桃城を急襲、これきっかけに豊臣対北条の関係が悪化し小田原の役が開始されます。

 小田原の役後、昌幸は上田城(長野県上田市)を居城として沼田城には嫡男である信幸を配し当地方の要とします。

 関が原の合戦後は東軍に付いた真田信幸が9万5千石で沼田藩を立藩、元和8年(1622)に信幸が13万石で松代藩(長野県長野市松代)に移ると沼田市周辺(3万石程度)は沼田領として半独立領となり、信幸の弟である信政が領主となります。

 信利の代になると6男の信房と松代藩の家督相続争いが起き、結果信利が敗れた為、信房が真田宗家を継ぎ、信利は明暦4年(1658)に正式に沼田藩を独立させ3万石の大名に列しました。

 天和元年(1681)、信利は悪政と両国橋架け替えの材料調達の遅延を理由に改易されたことで一時天領となり、元禄16年(1703)本多正永が3万5千石で入封、その後、黒田氏、土岐氏と藩主が変わり明治維新を迎えています。

 出典:群馬県沼田市観光・旅行見所ナビ


◆後北条氏との沼田城争奪時代

 天正8年(1580)6月、真田昌幸は武田勝頼の先兵として北条勢を駆逐し沼田城へ入ります。

 翌9年3月、沼田平八郎景義は父順奉が築いた沼田城奪還のため来攻しましたが、昌幸の策に乗った金子美濃守に欺かれ、城内で謀殺されてしまいます。


沼田城天守想像図    出典:沼田市観光協会

 天正10年(1582)3月、織田信長と徳川家康の連合軍に攻められた勝預が天目山で自刃したため、昌幸は織田方の武将・滝川儀太夫に沼田城を明け渡しますが、同年6月租長が本能寺で明智光秀に討たれたので再び沼田城へ入り叔父矢沢頼綱を城代に据えました。

 北条氏は、西上州の戦略拠点であった沼田城を奪取するため大軍をもって来攻しました。

 この攻防戦は7年間続きましたが、城代頼網の奮戦により北条氏は沼田城を攻略することができませんでした。

 そこで北条氏は天下統一を目前にした豊臣秀吉に仲介を請い、裁定により沼田城は北条領とされ、天正17年(1589)7月、またもや昌幸は沼田城を明け渡しました。

 しかし同年10月、北条氏の城代猪俣邦憲は、天正15年(1587)に秀吉が出した大名間の私戦を禁じた「関東惣無事」を無視して利根川の対岸の真田領・名胡桃城を不法に攻略したことから、秀吉はこれを口実に北条征伐を行い小田原城を攻め落としました。

 天正18年(1590)、昌幸は秀吉から改めて沼田城を与えられました。名実共に沼田領2万7千石の支配者となった昌幸は、長男信幸を初代城主に据えました。

出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行


沼田藩・真田家五代

 信幸は長い戦乱に疲弊の極みにあった領内の復興につとめ、年貢の減免、水利の開削、田畑の開拓、町割の改修等を行い今日における城下町沼田の基礎を築きました。

 そして、乱世において真田家の運命を託せる人物として徳川家康を選び、父昌幸・弟信繁(幸村)と敵味方に分かれてまで忠勤を尽くし真田家の命脈を保ち、名も信幸から信之に改めました。

 元和2年0616)に信之は沼田城主を信吉とし、上田へ移りましたが、6年後には幕命により松代へ移封となりました。2代城主信吉は父信之の偉業をよく引き継ぎ領内の拡充に努めましたが、寛永11年(1634年1月)に江戸で急死してしまいました。

 翌年松代から信之が来てわずか4歳の熊之肋を3代城主に据えましたが、3年後に江戸で死去してしまいました。寛永16年(1639)、再び信之が来て信政を4代城主にしました。信政は用水工事を行い、田畑を開拓し領内をさらに開発しました。

 明暦2年(1656)、信之が91歳で隠居したため信政は松代城主を継ぐことになり、翌年7月有力な家臣団を引き遅れ沼田を去りました。

 5代城主を継いだ信利は拡大検地を行い表高3万有を14万石に拡大し過酷な年貢を課し領民を苦しめました。

 延宝8年(1680)、信利の強力な後援者であった大老酒井忠清が5代将軍推挙の件で失脚すると、幕府は大和元年(1681)11月、多年の悪政と江戸両国橋架替用材調達不足を理由に沼田藩を改易とし信利は山形藩へお預けとなりました。

 こうして沼田藩の真田家による統治は、91年間で幕を閉じたのです。

出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行


真田氏略系図(沼田関係)

出典:真田氏時代の沼田城下町   沼田市役所発行

 以下は真田氏のうち沼田(城主)に関連する年表です。

◆真田氏関連年表



出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行


つづく