真田の里、上州沼田 天桂寺 真田河内守信吉の墓 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda September 25 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
以下、現地で訪問した順に紹介します。この日は快晴、しかも暑くもなくすがすがしい日和でした。 最初に訪問したのは、下の地図にある天桂寺(K)です。 出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行 以下に天桂寺の概要、縁起、歴史などを紹介します。 出典は、群馬県沼田市観光・旅行見所ナビです。 ◆天桂寺(沼田市)の概要: 天桂寺は室町時代中期に開山した曹洞宗の古刹で真田沼田領2代当主真田信吉の菩提寺として知られています。宗派は曹洞宗、本尊は釈迦如来です。 天桂寺本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 天桂寺にて 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-20 信吉は初代となる真田信之(上田藩主、松代藩主)と大蓮院殿(小松姫)の長男として生まれ、慶長19年(1614)大坂冬の陣と慶長20年(1615)の夏の陣には病床だった信之の代りに徳川方として参陣し、冬の陣では2千名を率いて母方の生家である本多忠朝隊に入り、夏の陣では2千3百名を率いて伊井直孝隊に入りました。 特に夏の陣が激戦とされ豊臣方の主力の一角である毛利勝永隊と交戦し25名前後討ち取ったものの、35名前後を討ち取られ、家臣の1人が信吉の身代となって銃弾を受けるなど事実上敗退しています。 元和2年(1616)、信之が藩庁を沼田城から上田城(長野県上田市)に移すと沼田領3万石の領主となり、沼田用水の整備などを行っています。 寛永11年(1634)11月28日江戸屋敷で死去、遺骸は迦葉山弥勒寺に運ばれ火葬され、菩提寺である天桂寺に葬られました。 六文銭 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 享年40歳、戒名は「天桂院殿前河州大守月岫浄珊大居士」です。 本堂は入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、屋根には真田家の家紋である六文銭が掲げられています。 鎮守社である豊川稲荷は荼枳尼天が祀られ、入母屋、桟瓦葺、平入、正面1間向拝付。境内に建立されている「味噌なめ地蔵(天桂寺では閻魔と奪衣婆を模した石仏)」は300年以上前に建立されたと伝わるもので自分が病んでいる場所と、地蔵の同じ場所に味噌を塗ると不思議と完治、又は病が和らぐと云われています。 真田河内守信吉の墓は昭和51年(1976)に沼田市指定重要文化財に指定されています。 天桂寺の境内 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 下は境内にあった仏足石です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 ◆真田河内守信吉の墓 信吉の墓は、本堂を正面にして右側にある下の写真の水路を少し行ったところにある天桂寺の墓地の一角にありました。 墓地に行く道沿いにあった水路 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 下は墓地入口への案内板です。 墓地入口への案内板 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 下が墓地の一角にあった真田河内守信吉の墓です。 真田河内守信吉の墓 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-20 なお、その後の調査結果から分かったこととして、真田家の墓はどれもほぼ下の写真にある信吉の墓と類似した形状、構造のものでした。 真田河内守信吉の墓 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 真田河内守信吉の墓 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 真田河内守信吉の墓 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-20 下は天桂寺の墓地の一角にあった真田河内守信吉の墓の解説です。 真田河内守信吉の墓の解説 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 真田河内守信吉の墓の断面図 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-9-20 出典:真田氏時代の沼田城下町 沼田市教育委員会 つづく |