真田の里、上州沼田 沼田公園 沼田城の概要と歴史 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda September 25 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
七番目に訪問したのは、下の地図にある沼田公園@です。 ここには、沼田城跡はじめ旧生方家住宅、旧土岐邸洋館などがあります。さらに沼田公園Aにもさまざまな史蹟などがあります。 ここでは、まず沼田公園@の沼田城からはじめます! 出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行 最初に、沼田の真田氏関連年表を再掲します。 以下は真田氏に関連する全年表です。 ◆真田氏関連年表 出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行 そのうち、沼田藩・真田氏藩主の一覧は以下の通りです。 出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行 次にWikipeda などから沼田城の概要と歴史について紹介します。 ◆沼田城の概要 出典:Wikipedia 沼田城(ぬまたじょう)は、上野国利根郡(現:群馬県沼田市)にあった日本の城(丘城)です。 上記の表にあるように幾つかの守護城に囲まれた堅城です。 当初、沼田氏の居城として建築され、戦国時代後期から江戸時代初期にかけては真田氏の沼田領支配の拠点として機能していました。沼田藩の藩庁でもあり、はじめは倉内城と称していました。 沼田城天守想像図 出典:沼田市観光協会 旧生方家住宅に展示されていた沼田城の模型 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-20 旧生方家住宅に展示されていた沼田城の模型 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-9-20 概要 群馬県沼田市倉内にあり、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城です。 二つの川側は約70mほどの崖となっており、典型的な崖城でもあります。 沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となっていました。本能寺の変後は真田信幸の支配城として、後北条氏と争っています。 江戸時代に城主は真田家5代、天領、本多家3代、黒田氏(譜代大名)2代を経て、土岐氏12代目に明治維新を迎えていいます。 真田氏時代には5層の天守や3層の櫓が建てられましたが、時代とともに縮小し、本多氏時代には三の丸を改修して館を建てる程度の規模になっていました。 明治維新後、1916年に旧沼田藩士の家の久米民之助によって城地が購入され整備されました。 1926年には沼田町(沼田市)に寄付され、現在は沼田公園となっています。 ◆沼田城の歴史と沿革 出典:Wikipedia 1532年 - 沼田顕泰により築城され、沼田氏の拠点となりました。 1560年以前 - 山内上杉氏没落と後北条氏による上野進攻のなかで、どちらに属すかを巡り 沼田氏がお家騒動を起こします。 後北条方側が勝ち後北条氏出身の沼田康元が城主となります。 1560年 - 長尾景虎(上杉謙信)が越山し沼田城を落とします。沼田顕泰は沼田の国人 (沼田衆)を率いる立場になったが城は景虎の直属(上杉家の「沼田三人衆」と 呼ばれる上野家成、河田重親、松本景繁による城代支配)となります。 1569年 - 『加沢記』ではこの年に沼田氏のお家騒動が起こり、隙をついて上杉氏が沼田城 を支配し、本庄秀綱による城代支配になります。 1578年 - 謙信死後に起こった御館の乱により沼田城を後北条氏が制圧します。 城代に猪俣邦憲、金子泰清らを置く。同年、甲越同盟の成立で上杉景勝が 武田氏の沼田攻略を承認し、真田昌幸が攻略の命を受けます。 1580年 - 昌幸が城代の泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め 入ってこれを無血開城させ、武田氏が沼田を支配化におきます。 同年、後北条方と由良氏の支援を得ました、 顕泰の子・沼田景義が沼田城奪還を目指して挙兵するが、昌幸の謀略により、 泰清に殺害されます。これによって沼田氏は滅亡します。 1582年 - 織田氏により武田氏が滅亡し、その功により上野一国を拝領した滝川一益の 重臣・滝川益重の城となります。 その後、本能寺の変を経て、後北条家に降った真田昌幸の支配となります。 直後に天正壬午の乱が起こり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が 持ち上がりますが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入ります。 これは後年の徳川氏との上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くこと になりますが、いずれも退けます。 1589年 - 豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配となり、猪俣邦憲が再び城代となります。 しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原 征伐が起こります。 1590年 - 北条征伐の戦後処理において、沼田城は昌幸の長男・真田信幸が支配します。 1597年 - 信幸が城郭整備します。 1600年 - 関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が上田領も継承し、 沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を 本拠とします)。 1615年 - 大坂夏の陣を期に、信之は上田に本拠を移す。沼田城は、長男・信吉が 城主となります。 1622年 - 信之が松代藩13万石へ加増移封。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の 分領として継続します。 1638年 - 信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政 (信澄)が沼田領を継承します。 1656年 - 信之が隠居し、信政が松代藩藩主となります。 沼田領は、信吉の子・信利が継承します。 1658年 - 信政が死去し、その相続を巡って真田本家と真田信利との間でお家騒動が 起こります。これを期に沼田領は沼田藩として独立しました。 信利が初代藩主となります。 1658年 - 松代藩への対抗意識から再検地を行い、元来は表高3万石だったところを 松代藩より多い14万4千石(実質は6万石余)として届けます。 のち、同じく対抗意識から沼田城に五層の天守を建て、江戸の藩邸も松代 藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装しました。 1681年 - 信利の暴政と、10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由 に改易され、沼田藩は廃藩にされます。以降1703年まで天領となります。 1682年 - 沼田城は破却され、堀も埋められます。 1703年 - 本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興されます。 以降、黒田氏、土岐氏と沼田藩の藩庁として存続するものの、城の本格的な 復興はなされないまま、明治の廃藩置県に至ります。 1916年 - 旧沼田藩士の家の久米民之助が城地を購入し、公園として整備。1926年に 沼田市へ寄贈され、現在は沼田公園となっています。 つづく |