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真田の里、上州沼田

妙光寺 

慶寿院の墓

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

September 25 2015
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真田の里、上州沼田 2015-9-20
@ 沼田市の概要   E 歓楽院   J 沼田公園・沼田城跡   O 旧生方家住宅2
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21 迦葉山弥勒寺

 五番目に訪問したのは、下の地図にある妙光寺Iの墓です。


出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行

 以下に妙光寺Iについて紹介します。

 結局、さんざん探したにもかかわらず、法城院Gが見つからず、私達は河岸段丘を登り妙光寺Iに向かいました。

 しかし、この妙光寺Iもなかなか見つけることができません。というのも、私達は車のナビに寺の住所を入れることで、その地番に向かうのですが、沼田市坊新田町1104−1を入れても、ナビはその近くで案内を終えます。見渡したところ、その近くには別の大きな寺があるのですが、どう見ても妙光寺Iではないのです。

 それでも数回、沼田市坊新田町1104−1周辺を車で周りますが、ダメです。そこで近くを歩いている女性に聞きました。それでもすぐには見つかりませんでしたが、何とかして妙光寺Iにたどり着きました。

 やはり妙光寺Iからは、隣にある大きな寺が見えたので、当初見つけた大きな寺の近くであることは間違いなかったようです。


◆妙光寺(沼田市)の概要: 

 下に妙光寺の概要を紹介します。


出典:群馬県

 妙光寺は、日蓮宗の寺で、元和年間(1615〜23)に日守聖人が本骼宸再建しました。
 
その後、寛文7年(1667)に5代藩主、真田信利の母、慶寿院が再び伽藍を改築して自らの法号をとって、慶寿山と改めました。
 
 その後、寛文10年(1670)、下総古河の妙光寺の住職、日統が再興して妙光寺と称したと伝えられています。

 境内には慶寿院の他、熊本藩改易の際に真田家に預けられた加藤清正の孫正良とその母の墓もあります。

 下は妙光寺の本堂です。右側に日蓮の像がトーンと建っています。


妙光寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


妙光寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20

 寺の正面右には日蓮の銅像が鎮座しています。本堂の左側に子育ての鬼子母神のお堂があります。

 上述のように、妙光寺は、真田信利の母、慶寿院、すなわち女性が創建した寺があります。

 本堂左手の奥には慶寿院小野お通(真田信幸の息子信吉の側室、小野お通、寛文9年(1669)5月27日没。65歳。)の宝篋印塔があります。この宝篋印塔は、次に行く正覚寺の小松姫の墓より華麗です。

 慶寿院「お通」は、二代目沼田藩主真田信吉の侍女から側室になった女性です。信吉没後、「お通は翌寛永12年(1635)に遺児を産んでいます。その後、叔父で四代藩主の真田信政から五千石の捨扶持を与えられ、親子で月夜野の小川城へ移り住むことになります。なお、「お通」は寛文9年(1669)5月27日に没、享年65歳です。そして、「お通」自身が興した妙光寺に葬られています。

 その後、この地は、松代藩主真田信之が隠居し信政の松代藩主への移任により、五代沼田藩主、真田伊賀守信利(信直)が納めることとなります。


出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行

 下は慶寿院の墓の写真です。


慶寿院の墓
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


慶寿院の墓
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


慶寿院の墓の断面
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


つづく