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ポーランド現地調査
(前半)
ワルシャワ蜂起と記念碑


青山貞一 Teiichi Aoyama
東京都市大学大学院環境情報学研究科
池田こみち Komichi Ikeda
環境総合研究所(東京)副所長

19 June 2009 拡充 1 November 2010 
初出:
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

前半 後半 全体
基本情報】 3月8日: 北ワルシャワ10号棟博物館
国を知る 3月8日: ワルシャワ蜂起と記念碑
歴史を知る 3月8日:ワルシャワ歴史地区再訪
【訪問概要】 3月8日:ワルシャワ蜂起博物館
訪問先概要(強制収容所・要塞) 3月8日:ワルシャワのゲットー
訪問先概要(町並修復・復元・保存) 3月9日:ワルシャワからクラクフへ
【論考】 3月9日:クラクフ歴史地区視察1
3月7日: 東京からワルシャワへ 3月9日:クラクフ歴史地区視察2
3月8日: ワルシャワ中央駅周辺 3月9日:クラクフ・ヴァヴェル城・大聖堂
3月8日: ワルシャワ歴史地区視察 1 3月9日:クラクフ歴史地区視察3
3月8日: ワルシャワ歴史地区視察 2 3月9日:カジミエーシュ地区
3月8日: 北ワルシャワ要塞・死の門 3月10日:早朝に知の殿堂を歩く

■2009年3月8日 終日ワルシャワ視察

●再びワルシャワ歴史地区へ
 
 北ワルシャワ10号棟博物館の視察を終え、再びワルシャワ歴史地区経由で宿泊先ホテル近くにあるワルシャワ蜂起博物館に行く。
 
 とはいえ帰り道は行きと同じではもったいない。そこでクラシスキ公園の横を通る。




◆クラシンスキ宮殿

 公園の前にクラシンスキ宮殿を見る。

 
クラシスキ宮殿
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8


◆ポーランド最高裁判所

 途中下の写真の巨大な立派な建築物が目に入る。 このリッパな建物は、ポーランドの最高裁判所である。規模と言い、デザインと言いなかなか奇抜、希有の建築物だ。


ポーランド最高裁判所
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8


ポーランド最高裁判所
撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.8


◆ワルシャワ蜂起記念碑

 この巨大な建築物(最高裁判所)の南端に、ワルシャワでは知らない人がいないワルシャワ蜂起記念碑がある(下の写真)。


ワルシャワ蜂起記念碑
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8

 ワルシャワに関連して歴史にも場所にも「蜂起(Uprising あるいは Rising)」という言葉が沢山出てくる。

 映画「戦場のピアニスト」にも、このワルシャワ蜂起がたびたびでてくる。主人公のピアニストは、映画の中では、このワルシャワ蜂起を支援している。

 ワルシャワでは、歴史的に見てたびたび蜂起が起こっているが、とくに重要な蜂起は第2次世界大戦中ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武装蜂起が重要である。

 ワルシャワ蜂起は要約すれば次のようになる。

 「第2次世界大戦末期、各地でドイツ軍をソ連軍がワルシャワに迫った。解放間近と見たポーランド軍とワルシャワ市民は1944年8月1日、ドイツ軍に対し一斉蜂起する。ポーランド軍は、一時優勢となるが、ポーランド軍が政治的に反ソ蜂起である実態を見たソ連軍がヴィスワ川の対岸まで到達しながら、そこで停止。援軍をたたれたポーランド軍は弱体化し、最終的に20万人近い犠牲者を出した。さらにこれによるワルシャワの市街地は85%破壊され10月2日にポーランドはドイツに降伏した」


 長くなるが、ポーランド、ワルシャワを研究する上できわめて重要となる歴史的事実でもあるので、以下にワルシャワ蜂起について詳説したい。

ワルシャワ蜂起

 第2次世界大戦中ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武装蜂起。

 1944年6月22日から開始されたソビエト軍によるバグラチオン作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。

 ソ連軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。

 7月30日にはソ連軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。ワルシャワ占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた

 しかし、7月31日にはドイツ軍が反撃、ソ連軍は甚大な損害を被る。

 さらにソ連軍は補給に行き詰まり、これ以上の進撃は不可能となり、進軍を停止した。しかし、国内軍にはソ連軍進撃停止の情報は伝えられず、8月1日午後2時頃、約5万人のポーランド国内軍は蜂起を開始


 
国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。

 ワルシャワ市内には治安部隊を中心に約12,000名のドイツ兵が駐屯していた。その内、戦闘部隊と呼べるのはオストプロイセン擲弾兵連隊の約1,000名だけであった。

 ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの奮戦し、国内軍は目標地点のほとんどを占領できず、わずかにドイツ軍の兵舎、補給所を占領しただけであった。即日報告を受けたヒトラーは、これをみて、ソ連軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命ずる。


ワルシャワ蜂起記念碑
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8

 国内軍は引き続き、目標地点に攻撃を仕掛けるが、成果は上がらず、警察署、電話局では取り残されたドイツ軍部隊が徹底抗戦を行っていた。しかし、ドイツ軍の補給所、兵舎の占領により、当初数人に一人しか銃が無いという状態を脱し、奪ったドイツ軍の小火器、軍服が国内軍兵士に支給され、装備面で改善が見られた。

 これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、国内軍兵士はポーランド国旗の腕章を着用し、識別を行った。さらに多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。


ドイツ武装親衛隊の倉庫から奪った装備に
腕章を着用した国内軍兵士

 鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は8月3日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。

 急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。しかし、国内軍の猛烈な防戦に会い、進撃は遅々として進まなかった。

 攻撃部隊にはカミンスキー旅団やSS特別連隊ディルレヴァンガー といった素行の悪さで有名な部隊が加わっており、これらの部隊の兵士たちは戦闘より略奪や暴行、虐殺に励んだ。このことはワルシャワ市民と国内軍の結束を一層強め、戦意を高揚させた。

 7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗はすさまじく、激しい市街戦が続く。

 国内軍も8月19日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為の報復として、捕虜のうち武装SS、外国人義勇兵は全員その場で処刑された。

 しかし、ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に国内軍を追いつめていった。

 8月27日、あまりにも目に余るカミンスキー旅団の残虐行為に、ハインリヒ・ヒムラーは司令部に対し、カミンスキーの処刑を許可した。カミンスキーは逃亡を図るが、逮捕されて処刑された。

 カミンスキー旅団はワルシャワから撤退し、解散した。8月31日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出する。9月末には国内軍はほぼ潰滅する。

 ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に終わる。



蜂起終結後、火炎放射器による市街の破壊を行うドイツ軍

 その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。

 しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して宣言したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。

 10月3日、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。

 翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として扱われて捕虜収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。

 市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は1万6千人、ドイツ軍は2千名の戦死者を出した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 最高裁と蜂起記念碑の反対側に2つの塔をもった建築物がある。


ワルシャワ蜂起記念碑の前にある
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.8


◆バルバカン再訪

 このあと蜂起記念像からほど近くにあるバルカバンを再訪する。


バルカバンの外側
撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.8

 とバルカバンには少年の彫像があった、実はこれもワルシャワ蜂起に関係している。

 ワルシャワ蜂起では、10代以下の子どもたちも手に手に武器を取り、ポーランド軍とともにドイツ軍に立ち向かった。何とも悲しく涙が出る。

 ソウルの西大門刑務所でも福島県二本松にある青年白虎隊でもそうだが、子どもたちのこの種の行動は本当にいたたまれないものがある。痛々しい。

 ワルシャワ蜂起、とりわけ市民が一斉に立ち上がったワルシャワ市民蜂起については、映画「地下水道」(アンジェイ・ワイダ監督)に描かれている。


ワルシャワ蜂起に立ち上がった子どもの銅像
撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.8


ワルシャワ蜂起に立ち上がった子どもの銅像
撮影:池田こみち Nikon Cool Pix S10 2009.3.8


つづく