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前半 後半 全体 ■2009年3月9日 クラクフ旧市街視察3 |
●クラクフ(ヴァヴェル)城・大聖堂 昼食後、クラクフの歴史地区をさらに南に向かって歩くと、古都クラクフにあってひときわ目立つ存在となっているヴァヴェル城とカテドラル(大聖堂)が見えてくる。 ここはポーランド王の戴冠式を行う聖堂であり、ポーランドにとって最も重要な国宝とも言うべき場所である。ポーランド1000年の歴史とともに、ポーランド国内でも最も多くの宝物が現存し、ヴァヴェル城とカテドラル(大聖堂)が一体化したその姿は、外から見ているだけでも興味が尽きない。 カテドラルに向かって坂を上がると、下の写真にある門に出会う。 クラクフのヴァヴェル城・大聖堂に通ずる門 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 一通りカテドラルとヴァヴェル城を外から見て、入場券を買ってカテドラルに入る。 ヴァヴェル城・カテドラルの入場券 大聖堂は14世紀に建てられたゴシック様式の教会である。その後、16世紀、17世紀に ルネッサンス式の礼拝堂が増築されている。 この大聖堂では14世紀から歴代のポーランド王の戴冠式や葬式が行われている。 クラクフ大聖堂の塔。塔の中に大きな鐘楼がいくつも入っている 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 大聖堂のなかは撮影が一切禁止となっていたので、写真でお見せすることはできないが、ひと言で言えば、これでもか、というほど金銀、琥珀などで造られた財宝や絵画が所狭しと置かれていた。 この大聖堂で思い起こしたのは、チェコのプラハ城に併設されている大聖堂だ。どこからプラハ城の大聖堂に似ている。 ◆青山貞一:プラハ城のすべて 1605年にポーランドの首都がワルシャワに移った後も18世紀まで 冠婚葬祭行事がこの大聖堂で行われていた。大聖堂内には、カジミエジュ三世、ヤドヴィガ王女などポーランドの歴代の王族の棺が備えられている。また地下にはアダム・ミツキエヴィチらポーランドの偉人の墓地もある。さらに大聖堂の隣には大聖堂博物館もある。 大聖堂の北側にあるジグムント塔にはポーランド最大の鐘がつるされている。この鐘は周囲が8mもあり、1520年に鋳造された。宗教上および国の特別な行事の際にのみ鳴らされる。この巨大な鐘を支えているのはすべて木である。しかもジクムント塔の下か上までこのような鐘楼がいくつもツル下がっているのだから驚きだ。 巨大な鐘楼の下で 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 ジクムント塔内の 巨大な鐘楼 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 ジクムント塔に登る木の階段 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 下はジクムント塔の途中からクラクフ歴史地区の北側を撮影したもの。中央市場広場にある聖マリア教会の塔や旧市役所の塔も見える。まさに中世の町並みがそのまま見れる。 クラクフヴァヴェル城に併設されている大聖堂から見たクラクフ旧市街 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 下の写真にある大聖堂の礼拝堂のうち、金色のドームが美しいジグムント礼拝堂は、ポーランドのルネッサンス建築の最高傑作といわれている。この礼拝堂は1519年にジグムント王の要請でイタリアから招いた建築家によって建造され、1533年に完成している。 中部にはジグムント・スタラ王、ジグムント・アウグストゥス王、アン・ヤゲロンスカ女王の墓がある。 礼拝堂の下の墓 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 それにしても下の写真を見ると、主役の多い映画のように目移りしてしまう。 大聖堂の塔と礼拝堂 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 金色のジグムント礼拝堂の上にある王冠を頭にいだいた白鷲は、ポーランドの国章である。1410年、ポーランド・リトアニア連合軍はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団 に勝利し、さらに1454年からの13年戦争でも勝利し、バルト海沿岸の町グダニスク及び東ポモジェ地方を手に入れた。 クラクフ自由共和国の国章 この歴史的勝利とその後の繁栄をもたらしたのが、ほかならぬ赤地に王冠白鷲の軍旗である。そのことから王冠白鷲はヤゲウォ王朝の繁栄、ひいてはポーランドの繁栄を象徴する存在にな っている。 クラクフの旧市街南、ヴィスワ川のほとりにそびえたつヴァヴェル城は、ポーランドを代表する歴史遺産である。 ヴァヴェル城の歴史は、11世紀の初頭にまでさかのぼる。1320年にクラクフがポーランドの首都となると、国の政治をつかさどる王宮として、また文化の中心地としてクラクフは大いに栄えた。 下は一瞬だけ日が差したときに撮影したクラクフのヴェヴェル城。 クラクフ・ヴァヴェル城 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 下の写真は建築中のヴァヴェル城。ポーランドに限らず、ドイツのドレスデンなど欧州ではよく見る建造中の写真だが、現在は大型クレーンなどの重機を使って修復などをすることがる。だが、本体の建造はやはり写真のように足場をくみ上げ、人海戦術で建造しているものが多いようだ。 ということは、今でも昔でも特種な重機を使用せずに、ほぼ同じ建築物、建造物がつくれるということを意味する。おそらくポーランドは数ある欧州の国々の中でも、最も歴史的建造物の建築、修復、復元の技術、能力が蓄積されている国と思える。 クラクフのヴァヴェル城を建設している最中の貴重な写真 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 下の写真は旧王室。16世紀にジグムント王が建築している。この旧王室は3階建てであり、ゴシックとルネッサンスの複合様式となっている。外付きのアーケード式回廊が中庭を ぐるりと取り囲んでおり、内部は王宮博物館として公開されている。中でも王の戴冠式に用いられてきた「Szczerbiec」という剣や、16世紀のフランドル産のタベストリーは一見の価値がある。 クラクフ・ヴァヴェル城にある旧王宮 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 下は建築中のヴァヴェル城の王室。 建造中のクラクフ・ヴァヴェル城の旧王宮 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 この王室は全部で71もある。 旧王宮や私室 の見学は、30分おきにガイド付きツアーがスタートし個人での見学はできない。今回は時間との関係で旧王室ツアーには参加出来なかったが、ここでは、兜、盾、鋒、剣、大砲、鉄砲などの武器を時代を追って見ることができる。 下のの写真は、クラクフのヴァヴェル城・カテドラルの全体模型である。これをみても、チェコのプラハ城・大聖堂と構成が良く似ていることが分かる。 クラクフのヴァヴェル城と大聖堂の大模型 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 ヴェヴェル城の一部。現在は管理棟として使われれている模様 撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.9 Aの<歴史を知る>やNの<クラクフの歴史地区視察1>で述べたように、ヴラデスワフ1世の息子のカジミェシュ3世は、法典を整備し、クラクフに大学を設立し、ユダヤ人を保護して国力の強化に努めるなど、その後のポーランド繁栄の基礎を築きました。 「ポーランドを木造から石造りに変えた」と賞賛されている。 ポーランドは10世紀に統一されたが、12世紀前半に王位継承権をめぐっての対立、豪族の台頭などにより諸侯国に分裂し ていた。 さらに14世紀からのヤゲウォ朝時代は、「黄金の世紀」とよばれポーランドがその歴史においてもっとも繁栄を極めた時代である。 ヤゲウォ朝はポーランド・リトアニア連合国で、一時は、北はドイツ騎士団国家を王領プロイセンとして支配し、東はドニエプル川のはるか東、南はバルカン半島から黒海までと広大な国土を有し、また商業においてもライ麦や木材の輸出により「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれるまでに繁栄しました。さらにコペルニクスが活躍するなど文化も栄えた時代であった。 16世紀末、国土の東方拡大に伴って首都はクラクフからワルシャワに移転されたが、今でもクラクフの人は「 政治的な首都はワルシャワだが文化の首都はクラクフ」と自分の街に誇りを持っているようだ。 ※ 本論考の歴史記述は、ポーランド政府の 「ポーランドからの報告」をもとに執筆しています、 つづく |