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前半 後半 全体 ■2009年3月8日 ワルシャワのゲット− ●ワルシャワのゲットー これから視察するナチス・ドイツが第2次世界大戦時の1939年から1944年にポーランド南部、東部で行ったユダヤ人などの強制収容と殺害に関連し、ここでは主にワルシャワ地区のゲットーについて触れておきたい。 狭義の意味でゲットー(ghetto)は、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区を意味する。第2次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。 第2次世界大戦時、ナチス・ドイツはユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、東欧の諸都市に「ゲットー」を復活させた。、1940年から1941年にかけて設置、運用されたゲットーが作られた都市及びゲットーの数は膨大である。 このように1939年以降、ナチスはポーランド国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、1940年10月にはポーランド占領下で最大規模のワルシャワ・ゲットーを設けた。 その後、ゲットーは事実上の強制収容所となった。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人などがその命を落とした。 1942年以降、ナチスは絶滅収容所へ強制移送を始める。 ヨーロッパ各地のユダヤ人らが東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人ものひとがワルシャワから北東約90kmにあるトレブリンカ強制収容所へ移送された。 ワルシャワ・ゲットー蜂起をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生したが、いずれもナチスの厳しい報復によって失敗に終わり、ゲットーにいた大部分のユダヤ人は殺害されている。 下の地図は、ワルシャワ市中心部に1942年から1943年にあったユダヤ人用のゲットーである。地図中、オレンジ色部分がゲットーである。 ワルシャワのユダヤ人ゲットー Map of the Warsaw Ghetto 凡例:オレンジ色がユダヤ人ゲットー Source:English Wikipedia 下の地図は1943年に起きたワルシャワ・ゲットー蜂起時のものである。このワルシャワ・ゲットー蜂起は、その後の1944年8月に起き、約30万人がナチス・ドイツにより殺害されたワルシャワ(市民)蜂起以前にあっては最大の蜂起であった。 ワルシャワ蜂起時のワルシャワのゲットー ナチス・ドイツによってゲットーのユダヤ人らが強制収容所送りになるとともにワルシャワのまちは徹底的に破壊され焦土となった。左側に見えるのがクラシスキ公園である。 |
◆ワルシャワ・ゲットーの実態 第2次世界大戦中の1940年以降、東欧諸国に侵攻したドイツは、占領地にゲットーを設けて、現地のユダヤ人を強制的に移住させた。特にポーランドに侵攻・併合した後、ワルシャワのユダヤ人に居住を強制したゲットーはワルシャワ・ゲットーの名前で知られている。 ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなった。ワルシャワ・ゲットーのほかにも、当時は数多くのゲットーが存在していた。 ゲットーは出入り禁止とされ、ユダヤ人たちは、ダビデの星を腕などにつけさせられ、1942年の移送と1943年の親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー掃討でトレブリンカ強制収容所やアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所などユダヤ人強制収容所に移送されるまで、そこに住むことになった。 監視が厳しく、外は高く厚い壁と脱出防止の電線や有刺鉄線が敷かれ、逃亡を見つけられたユダヤ人はみな射殺された。 ゲットーの中は悲惨な状態であった。 ワルシャワでは人口の30%が市域の2.4%に住まわされ、平均して一部屋に9.22人が暮らす密集具合であった。 かつて5家族が生活していた空間に700人が暮らすゲットーもあった。 ワルシャワで配給される食料は、ポーランド人一人当たり669kcal (2,800kJ) 、ドイツ人一人当たり2,613kcal (10,940kJ) であったのに対し、ユダヤ人一人当たりでは253kcal (1,060kJ) であった。しかし外出することが許されなかったためこの食料に頼るしかなかった。 下水設備などはほとんどなく、密集した生活環境と極端な食料不足により、伝染病の流行や飢餓で何10万もの人が死に至った。それでも、中にいたユダヤ人たちは少しでも前の生活に戻ろうと、学校や診療所を設けたり、コンサートを開いたりもした。 子どもの権利条約の元になった「子どもの権利」の提唱者、ヤヌシュ・コルチャックとその孤児院の子どもたちもここから、トレブリンカ強制収容所に送られた Source:English Wikipedia ... 私たちは、かくしてポーランドのワルシャワにおける長い長い一日目が終わった。 ホテルは近いが足は重く。夕食も食べずホテルに帰って就寝。 明日は以前、首都があった南部の古都、クラクフに列車で移動する。 つづく |