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兵馬俑 百度百科2

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は中国西安市(長安市)の兵馬俑の百度百科版の2です。

◆兵馬俑2 中国百度百科

◆歴史的背景


兵馬俑展示  出典:中国百度百科

 家臣などの人間が君主の死に際して殉死するという原始的な公有制は瓦解しつつあり、奴隷制をつくり盛んに行われるようになるなかで、残酷かつ野蛮な葬儀制度もそのひとつでした。人の殉死が最も盛んに行われた時代は殷商時代でした。商時代の貴族の大きな墓にはすべて殉死した人々が埋葬されていました。安陽市にある殷墟(古代中国殷王朝工期の首都の遺構)の王の陵内(墓)には、数十の大きな墓の中に5000人以上が生きながら葬られたり、殉殺されたりしているのが発掘されました。

 注)殷商時代とは (Wikipediaより)
  殷(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。
  文献には天乙(湯)が夏を滅ぼし  て建立したとされ、考古学的に実在が確認されて
  いる中国最古の王朝である。殷代、商(しょう、拼音: Shāng)、商朝、殷商とも呼ばれる。
  紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

 周王朝は、殷商時代の残酷な政治を教訓として、「明徳保民」(正しく公明な徳をもって、人民を保護する)を強調しました。礼儀正しい周王朝の誕生とその政策は、人殉(君主の死に伴って家来も殉死するという制度)は非常に抑圧的な制度であるとしたものの、これを根絶することはできませんでした。春秋時代に入ると、列国が覇権争いを行い、人殉は再燃し盛んに行われるようになりました。戦国時代、各国の諸侯は、相次いで人殉制度を廃止していきました。秦の時代に入り献公元年(紀元前384年)、「従死の中止」を決め、秦国は正式に人殉制度を廃止しました。

 春秋戦国時代には、葬儀の習慣についての社会変革を促し、変化しました。それ以降、俑(陶器などでつくった陪葬のための人形や塑像)の殉葬が出現し、人殉に変わって陶俑や木製の俑などが用いられるようになりました。「俑」の本来の意味は、殉死でしたが、次第に人々の視界から人殉(ひとの殉死)は薄れていき、「俑」が墓に葬られるようになり、陶器の像や石像などの人像の特別な名称となりました。こうして、秦の兵馬俑は、俑が人殉の葬儀に代わる典型となり、人殉に代わって俑による葬儀がピークを迎えます。秦時代の俑がこれほどの規模、写実性において高いレベルに至ったかについては、制作者の匠の知恵に加えて、歴史的に最初の封建的皇帝である秦の始皇帝の意思があったことは間違いありません。]


◆歴史沿革


世界文化遗产:秦始皇陵及兵马俑坑
兵馬俑展示  出典:中国百度百科

 歴史の記録によれば、秦の始皇帝陵は、慣例により、丞相である李斯(りし)の指導でその計画と設計が始められ、章邯将軍が監督し、およそ39年の歳月を掛けて建設されました。兵馬俑は、秦陵の建設と同時に構内に随葬として埋められました。

 注)丞相(じょうしょう)
   古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。
   今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者
   を任命できる国)の首相に相当する。
 
 秦の子婴元年(紀元前206年)、始皇帝陵は最初にして最大の災難に遭遇しました。「史記・高祖本記」、「漢書・第一巻·高帝紀第一上」 、「漢書·第三十六巻·楚元王伝第六」などの史籍に記載されているように、項羽が関中(中国、陝西省の渭水(いすい)盆地の古称)に攻め入った後、秦の始皇帝陵は大規模に破壊され、地面からいっぺんに崩され、また、皇帝陵は堀返され、兵馬俑もこの災難によって大々的に破壊されてしまいました。考古学的な発掘調査によると、一号俑坑と二号俑坑において、木炭の跡が見られ、説明によれば、一、二合俑坑は、火災を受けたあとに造成されたことがわかりました。

 1974年3月、臨潼縣驪山鎮西楊村の農民が、皇帝陵の東1.5キロメートルの所に井戸を掘ったところ、人と同じ大きさの泥製の数体の大小の陶器の俑を発見しました。その後、陝西省考古学探検隊が試掘調査を行って調べ、兵馬俑が再び日の目を見ることになったのです。

 1974年7月、考古学者が陝西臨潼縣秦始皇陵東側の秦時代の兵馬俑坑の掘削を開始ししました。

 1987年12月、秦の始皇帝陵及び兵馬俑は「世界遺産」に登録されました。

 2009年6月13日、秦の始皇帝陵兵馬俑第一号坑から大三次大規模掘削調査が始まりました。


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