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信州 宿場探訪

中山道とは

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
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信州 宿場探訪 (中山道 和田宿)
 中山道とは  中山道と宿場  中山道の全体像  信定寺
 和田宿本陣(概要)   和田宿本陣(建物)  和田宿本陣(什器など)   山木屋・大黒屋
 かわちや・歴史の道資料館(建物)  かわちや・歴史の道資料館(什器など) 
 旅籠の全体総括  羽田野・脇本陣  八幡神社、菩薩寺  米屋鐵五郎本舗

 2015年5月4日、私達は前日行った上田市や青木村の「信州の鎌倉」、さらに筑北村の寺院、神社、花木などがあまりにも秀逸なのに感動し、信州(長野県)の東部地域でまだ行っていない町村にでかけることにしました。

 入手したさまざまなパンフレットを見ると、中山道は江戸から京都、京都から江戸への主要な街道であり、六十九次とあるように、東海道より宿場の数が多くなっています。しかし、大井川はじめ渡るのが困難な川が少ないこと、旅の間の様々なリスクが少ないことなどの理由から、参勤交代や皇女和宮が江戸将軍に嫁ぐ際にも使われています。

 一方、中山道には木曾御嶽山、和田峠、碓氷峠などの難所もあります。


旧中山道路線図    出典:Wikipeia


出典:グーグルマップ

◆中山道とは

 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つです。
 
 本州中部の内陸側を経由する路線であり、
「中仙道」、「仲仙道」とも表記しますが、「木曾街道」「木曽路」の異称ももっていました。

 木曾街道と言えば、今年3月、御嶽山噴火に関する学習会が地元の木曽町であり、、出かけたところです。


◆中山道の歴史

戦国時代

 戦国時代の東山道は、武田氏(甲斐国)や小笠原氏(信濃国)や金森氏(飛騨国)や織田氏(美濃国)などの地盤でした。

 このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備されました。この連絡線は、現在の国道52号、国道151号・国道153号、国道22号などの源流となっています。

 織田信長は江南の六角氏攻略のため近道を整備し、醒ヶ井宿(滋賀県米原市)から鳥居本宿(滋賀県彦根市)間で東山道とは別に、中山道となったとされています。

 1600年(慶長8年)、宇都宮から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っています。この際、真田昌幸が守る上田城を攻略できず、足止めされ関ヶ原の戦いに遅参するという失態を起こしています。


江戸時代


『木曽海道六拾九次之内 加納』 歌川広重筆   出典:Wikipedia

 下は、慶長7年(江戸幕府開府の翌年)の主な街道です。

 東海道、中山道、甲州街道日、光街道、奥州街道が見えます。いずれも江戸を起点としています。江戸を出て最初の宿は、東海道が品川宿、中山道が板橋宿、甲州街道が内藤新宿、日光街道と奥州街道は千住となっています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4



『木曾街道 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望』 渓斎英泉筆。峠から氷結した諏訪湖を臨む。
左手に見えるのは八ヶ岳連峰。   出典:Wikipedia

 江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備しました。

 それまでの東山道の街道を改良したものが多かったのですが、大井宿(岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) - 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もありました。

 戦国時代迄は山道や東山道とも称され、江戸時代には中山道や中仙道とも表記されましたが、1716年(正徳6年)に、江戸幕府の通達により中山道に統一されました。

 一方で庶民には木曽街道や木曽路といった古くからの呼称、俗称も用いられました。また、数箇所の険しい峠道はあったものの、東海道のような長期にわたる川止めがないことから姫街道とも呼ばれています。

 嫁入りに際しては縁起の良い地名が多いこともあり、幕末の京都から江戸の徳川家への和宮の降嫁は中山道が使用されています。

 下の地図は、
皇女和宮が江戸将軍家に嫁ぐ際、京都から江戸に行くのに中山道を使いましたが、その際通った宿泊地を示したものです。今回私達が最初に訪問した長野県長和町の和田宿は、まさに皇女和宮が宿泊した地のひとつとなっていました。


出典:和田宿本陣
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4
 

◆中山道の関所

 関は、上野国碓氷(群馬県安中市)、信濃国福島(長野県木曽郡木曽町)、信濃国贄川(長野県塩尻市)の三箇所に設置されています。


◆歴史遺産

 明治以後の急速な経済発展や関東大震災による被災、第二次大戦時の空襲などによって、沿道が急速に変貌した東海道沿線と異なり、中山道沿線では、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されて来ました。

 高度経済成長期以後、これらを積極的に保存しようという運動が高まりました。

 特に、重要伝統的建造物群保存地区として選定された長野県の妻籠宿(1976年選定)と奈良井宿(1978年選定)が有名です。

 他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備しています。また、奈良井宿と藪原宿の間にあり、日本海(信濃川水系)と太平洋(木曽川水系)の中央分水嶺でもある鳥居峠や、妻籠宿と馬籠宿の間にある馬籠峠では、自然遊歩道としての整備が進められています。

 中山道は、約30の大名が参勤交代に利用したと言われています。その中で最大の領地を持つ加賀藩は、江戸藩邸の上屋敷を中山道沿いの本郷に、下屋敷を板橋宿に置いました。

 そのうち、江戸上屋敷の敷地は明治以後は、東京帝国大学(現在、東京大学)となっています。現在の東京大学本郷キャンパスは、国道17号に面しています。また、かつての中山道に面して建つ加賀藩上屋敷の御守殿門(赤門)は、重要文化財に指定され保存されています。

 中山道は、様々な文学作品の舞台ともなっています。馬籠出身の島崎藤村は、自らの故郷を舞台に歴史小説『夜明け前』を執筆しました。現在の馬籠宿には、「藤村記念館」などが建設されています。

 なお、昔の面影が残る旧中山道(碓氷越え)は鎌倉時代からあった主要街道です。

 碓氷峠は中山道最大の難所として知られており、江戸時代には道が整備されて、関所や坂本宿、軽井沢宿等が設けられています。

 しかし険しい急坂がつづく難路であったため、明治19年に中山道は南方に開削された新道(旧18号)に移り、新らたな峠が作られています。

つづく


出典:グーグルストリートビュー