中山道、信州 宿場探訪 旅籠の全体総括 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda May 15, 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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◆旅籠 全体総括
以下は、かわちや資料館にて学芸員の方から伺った内容を池田こみちがメモしたものです。 皇女和宮は十五歳で江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となるため、京都から江戸に向かった。その当時、すでに勢力が衰えてきていた将軍家と皇室を合体(公武合体)させることにより、再び世間の耳目を集め、徳川将軍家の勢力を強めようとしたものだったが、その思惑は必ずしも成功したわけでは無かった。 皇女和宮は徳川に嫁ぐことが決まる前、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約しており、突然の徳川家への嫁入りはその後の彼女の運命を大きく変えることとなった。 その年の三月に和田宿では、ある家の灰の不始末から出火し、風下一帯が焼失する大火災となって村が消滅した。しかし、その時点では、既に皇女和宮が中山道を江戸に向かって旅することになっており、江戸幕府は今の為替価値に換算して2億円くらいの資金を村に援助し、その年の11月の和宮の到着までに宿場を再生するように求めた。 宿場は幕府からの資金援助を受け突貫工事で宿場の再生を行った。大工、左官、畳職人などが全国から集められて材木も遠方から運ばれた。 本陣、脇本陣、問屋など、宿場に必要な施設が整備され、京都から同行する公家のための旅籠(かわちや)が用意された。公家が泊まらない時には武士や商人なども利用することができたが、一般の旅籠に比べて2〜3割高め(8000円程度)であったと思われる。 公家用の旅籠の八畳間の畳の敷方は現在の座敷と同じ様式だが、武士用の旅籠の八畳間は一方向に四枚ずつ二列に敷く様式となっている。それは、将軍に向かって主従が明確になるような敷方であり、奥行きを出す上では有効な畳の敷方となっていた。 公家用の高級旅籠では、一般客と公家客の入口を分けており、公家用には広い門と玄関までの敷石、履き物を脱ぐための石段などを設け、差を付けていた。 原則として、旅籠は1泊以上は出来ないルールとなっていた。連泊が許されるのは、病気などで動けない場合などに限られた。夕食と朝食の二食付きで一般の旅籠は5000円程度とされ、高級旅籠は8000円程度と言われていた。 旅人は、米(干飯)や雑穀などを入れた籠を肩に提げ、旅行をした。原則として個室はなく、二階の板張りの部屋には大勢が入れられ、ついたてなどの仕切りをして区切った。二階の部屋の窓には狭い格子が入れてあり、客に逃げられないようにしている。 旅籠には、女性(接客のための)は一般的にはいないのが通例だが、次第に、飯盛り女と言って、宿泊客に食事を運んだりサービスする女性が泊まり込むようになっていった。かわちやにも六名〜八名が泊まり込んでいたとされている。 大黒屋(旅籠)にも飯盛り女が数人泊まり込んでおり、夜になると、小便を入れるための手桶を持たされ二階の部屋に閉じ込められ階段を外して締め切り、逃げるのを防いだと言われている。 彼女らは地元の貧しい家の子女で口減らしのために働きに出されたと言われている。彼女らがいることが旅籠の売り上げに寄与したと考えられている。 旅籠の主人一家は、奉公人も含めて八人程度であったと言われている。主人の家族は、二階に居住していた。 二階に上がる狭い急な階段は、引き出し付きの引き上げ階段となっており、大切なものを仕舞って、階段を天井に引き上げし舞えば泥棒などからも見つからないという利点があった。 以下はWikipediaからの引用です。
つづく |