エントランスへはここをクリック   

旧中山道、信州 宿場探訪

和田宿本陣(概要)

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載禁
信州 宿場探訪 (中山道 和田宿編)
 中山道とは  中山道と宿場  中山道の全体像  信定寺
 和田宿本陣(概要)   和田宿本陣(建物)  和田宿本陣(什器など)   山木屋・大黒屋
 かわちや・歴史の道資料館(建物)  かわちや・歴史の道資料館(什器など) 
 旅籠の全体総括  羽田野・脇本陣  八幡神社、菩薩寺  米屋鐵五郎本舗

◆和田宿本陣

 下の地図では、左側の十字路の一角にA和田宿本陣があります。


 出典:中山道和田宿 長和町教育委員会、長和町産業振興課

 信定寺の前の道を美ヶ原方向と反対側に少し歩くと、十字路があり、その一角に和田宿の本陣がありました。


出典:歴史の道「中山道」資料館

 下は中山道和田宿町並まっぷにおける本陣です。真ん中より右にあります。


出典:歴史の道「中山道」資料館


◆和田宿本陣の概要

 和田宿の本陣は、文久元年(1861年)に火災により焼失しましたが、数ヶ月後に皇女和宮が京都から江戸に向かう途中の宿泊地とすることが決定していたため急遽再建されました。

 明治維新後に宿場制度が廃止となり本陣の役割が亡くなると座敷棟などは龍願寺(上田市丸子)へ移築され居室棟は役場や農協事務所として使用されました。

 昭和59年に旧和田村役場庁舎の移転に伴い解体される予定でしたが、中山道の宿場町の中で数少ない本陣の遺構のひとつとして評価され平成元年に復元、国指定史蹟に指定されています。


 出典:中山道和田宿 長和町教育委員会、長和町産業振興課

 下は和田宿本陣の門です。背後には山が迫っていることが分かります。


和田宿本陣の門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4

 下は和田宿本陣の庭にあった歴史の道、中山道 本陣の解説です。


和田宿本陣の庭にあった歴史の道、中山道 本陣の解説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4

 下の写真は十字路の一角にある和田宿の本陣です。


和田宿本陣(長野県長和町)前の池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4


和田宿本陣(長野県長和町)の門より本陣を撮影
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4


和田宿本陣(長野県長和町)の門より本陣を撮影
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-5-4

  早速、門をくぐり庭に入ります。 

 下は国の史蹟でもあります
和田宿本陣はじめ歴史の道資料館河内屋、資料館羽田野・大黒屋などの共通観覧券です。


 出典:中山道和田宿 長和町教育委員会、長和町産業振興課
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4
 

 和田宿の本陣を紹介するに際し、有名な皇女和宮の何たるかをお伝えしないわけには行きません。

◆皇女和宮について

 江戸幕府の幕末動乱期において「公武合体」のいわば切り札として政略結婚させられたのが皇女和宮です。

 皇女和宮は、仁孝天皇と橋本経子との間に1846年に生まれました。生まれる直前に父帝は亡くなり、腹違いの兄が孝明天皇となっており和宮より16歳年上でした。

 孝明天皇は、和宮を妹と言うよりは、まるで我が子のように可愛がっていました。和宮は足が不自由でしたが、6歳の時に、有栖川宮熾仁(たるひと)との間に婚約が整います。

 和宮15歳の時、幕府から朝廷に対し「将軍家茂へ和宮の降嫁を請う」と言う執拗な申し出がありました。天下争乱と危うくなった幕府体制を縁組で乗り越えようと言うのが背景にあります。

 孝明天皇は難色を示し和宮も申し出をいやがりますが、天皇は度重なる圧力に抗しきれず、和宮も兄の苦しい立場を思い承諾するに至ります。

 和宮も悲劇ですが、嫁ぎ先の将軍徳川家茂にも婚約者が居たのです。

 1861年、お輿入れの長い行列、それは何と50kmにもおよびました。行列は今日から江戸へ中仙道を下って行きました。

 あえて東海道ではなく中仙道を選んだのは、この縁組の反対派が和宮奪回を企んでいると言う噂があったため、また大井川など難所が東海道より少ない中仙道としたとされています。

 京都から江戸への行列は今のお金にして150億円、総費用は空前絶後です。徳川家茂も和宮も病弱だったらしいのですが、同年の二人には夫婦愛が芽生え仲睦まじく、とりわけ、家茂は宮を理解し大事にしました。


a Japanese woman 和宮親子内親王 (Kazunomiya)
出典:Wikipedia

 当時将軍であっても江戸城に安穏として居られるわけもありません。江戸から京大阪へと何度も往復したのです。

 その家茂は大阪城で急死します。21歳です。和宮と暮らしたのは実質で2年くらい、子供には恵まれませんでした。

 以後、和宮は静寛院と称します。そして、5ヶ月余後、兄の孝明天皇も急死します。36歳です。こうして16歳の明治天皇が即位します。これにより和宮が敢えて降嫁した意味は無くなりました。

 その悲しみも癒えぬままに、1868年正月3日、官軍と幕府軍の雌雄を決したとも言える「鳥羽伏見の戦い」が勃発し幕府軍は数の上では遥かに上回っていましたが、士気は遥かに下回っており完敗となります。 こうして、官軍の錦の御旗は益々輝く事になります。

 静寛院(和宮)は、徳川家存続の嘆願状を書き朝廷に送りますが、官軍の大総督はかっての婚約者、有栖川宮熾仁親王だったのです。


出典・参考:埴生の宿 http://www.h3.dion.ne.jp/~tammy22/

 下の写真は、和田宿で行われた控除和宮御降行列を模倣して行われた行事の一部です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4


◆和田峠と和田宿

 大人一人300円です。主体は長和町の教育委員会です。

 とくに和田宿本陣はじめ歴史の道資料館河内屋には、学芸員がそれぞれおり、非常に詳しい説明をして頂けます。

 以下は中山道の69ある宿場のうち、皇女和宮が宿泊した宿を赤で示していますが、和田宿本陣の最大の特徴は、皇女和宮が宿泊した宿であることです。

 資料館における文物の展示でも、そのことが非常に重要なテーマとなっておりました。
 
出典:和田宿本陣資料館

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4

 上述しましたが、敢えて東海道ではなく距離の長い中山道を選んだ理由は、1万5千人規模、50kmに及ぶ行列の大井川の渡りが容易ではないこと、箱根山の登りが急峻なことなどがあったそうです。

 しかし、中山道の場合でも、長野県内の和田峠があり、これを越すのは相当難儀であったことが想定されます。ちなみに、和田峠の最大標高1,531m、和田宿の標高は820mです。両者の差は700mほどあります。

 以下は、Wikipediaの江戸時代における和田峠の記述です。

◆江戸時代の和田峠

 中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていましたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長かったのです。冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていました。

 
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていたほどです。これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、いまでも地名にその名を残しています。

出典:Wikipedia

 下の歌川広重の浮世絵は、木曾街道(=中山道)の和田峠を描いたものです。強調はあるとしても和田峠がいかに難所であったかが分かります。


木曾街道六拾九次 和田(歌川広重画)
出典:Wikipedia

 一方、長野県と群馬県の県境にあります碓氷峠もかなりの難所だったようです。下の標高グラフは、信越本線の論考を書いたときに作成したものですが、軽井沢と横川の標高差は、600m弱あり、和田峠同様、難所であったことがわかります。私達はよく軽井沢から信越本線の眼鏡橋や横川に自動車で行きますが、自動車であっても旧中山道ルートは、Uターンのカーブが70−80箇所もあり運転が大変です。

単位:m

旧信越本線碓氷線主要地点の標高
出典:グーグルアースにより青山が作成


つづく