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寺社仏閣の「明治村」?

狭山山不動寺(所沢市)

3.桜井門・石灯籠

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


December 9 2014
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@調査の背景と目的 E第二多宝塔、康信寺 J桂昌院宝塔 O御成門
A狭山不動寺全体 F大黒天 K本殿、書院晴明閣 P台徳院霊廟詳細1
B桜井門・石灯籠 G羅漢堂 L徳川霊廟門 Q台徳院霊廟詳細2
C石灯籠の全国移築1 H鐘楼・総門 M丁子門 R崇源院霊廟詳細
D石灯籠の全国移築2 I第一多宝塔 N勅額門
歴代徳川将軍家家系 徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間

◆桜井門

 私達はその隣にある先に山口観音を拝観した関係上、西武ドーム側にある門ではなく、桜井門から寺に入りました。下の写真が桜井門です。


桜井門  
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 桜井門は下の解説にあるように、
奈良県十津川の桜井寺の山門として建造されたものです。


桜井門の解説板
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 この桜井門は、奈良県十津川の桜井寺の山門として建立され、桜井寺は幕末天誅組の本陣として利用された歴史を持っています。つくりは。千鳥破風の四脚門、入母屋造り、本瓦葺きとなっています。天誅組については、以下を参照ください。

◆天誅組(てんちゅうぐみ)

 幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。天忠組とも。

 文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて京を出発した。

 これに従軍した半田門吉の『大和日記』によると結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。このほか淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金として供出した。彼らがいつの時点で天誅組を称したかは詳らかではない。

出典:Wikipedia


◆増上寺の石灯籠群


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12

 桜井門(上の地図で左上)をくぐって入ってすぐのところに、下の写真にあるように沢山の大きな石灯籠がありました。この石灯籠群には何ら解説板がありませんでした。

 池田がひょっとしたらとひとつの石灯籠に刻まれている文字、年号などを見たところ、やっぱりです。ここにあった沢山の石灯籠はいずれも増上寺から運んできたもので、いずれも宝永年間(1704〜1710)(ほうえい、旧字体:寶永)のものであり、かつ増上寺と彫られていました。

 徳川家光の三男、徳川綱重(戒名:清揚院殿圓誉天安永和大居士、生誕:正保元年5月24日、死没:延宝6年9月14日)が34歳で没したのを機に各大名から奉じられた石灯籠だったのです。

家光の死後、四代将軍は家綱(家光の長男)、五代将軍綱吉(家光の四男)、六代将軍は家光の三男綱重の長男(1712年没)の家宣が継承しました。 宝永年間とは、元禄の後、正徳の前。1704年から1710年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。


増上寺から移築した石灯籠
   撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24
 
 増上寺には一説に1000以上の石灯籠があったとされてれていますが、コクドはこの寺をつくる際にかなりの石灯籠、それも寶永年間に置かれた石灯籠を移築しています。
 
 さらに池田の知人らが埼玉県秩父の寺に行ったとき、立派な石灯籠があるので、調べたところやはり増上寺に置かれた石灯籠であることが分かりました。

 下の写真にある石灯籠の真ん中に増上寺と刻印されているのが分かります。


石灯籠に刻印された 増上寺の名称 寶永も見えます
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


増上寺から移築した石灯籠
  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


増上寺から移築した石灯籠  
 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 下は境内の別の場所に移築された増上寺の石灯籠です。


増上寺から移築した石灯籠  
 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

つづく